出町(杉木新町)は、慶安2年(1649)杉木村・二郎兵衛を筆頭に16名が加賀藩に願い出て成立しました。二郎兵衛は出町の開祖として、現在五十橿神社に合祀されています。
しかし当時は、主要な街道も幅1間ほどと狭く、物流は川を利用した舟運が主流で、陸運は発達していなかったと考えられます。出町付近にも大きな川はなく、主流は千保川(柳瀬辺りを流れていた)でした。そんなに便利でもない所に本当に二郎兵衛は町を作ろうと考えたのでしょうか。
当時の加賀藩は、改作法を固めていた時期で、農村から商業的活動を排除し強い農家を育成しようとしていました。農村で商業的活動をしていた者とはどんな人たちか、それは農家の後継ぎになれない次男や三男たちと考えられます。この人たちは改作法によって行き場をなくしていたのではないかと考えられます。
そこで、加賀藩は新しく町を作って、農家の次男三男を町に住まわせたのではないかと想像できないでしょうか。しかし、北陸は「農民が治める国」と呼ばれたように、百姓が強い地域で「ハイ加賀藩の命令です」と言われて、簡単に従う百姓ではなかったと思われます。そこで加賀藩は、力のある百姓を肝煎りという役職につけることで、武士と百姓の間の緩衝材としての機能を負わせたのではないでしょうか。
出町の町立ても、武士が百姓の土地を取上げる形ではなく、百姓自らが土地を提供して願い出る形を取ることで、武士と百姓の争いをなくそうと、加賀藩が二郎兵衛らに自ら願い出る形に仕向けたのではないか、と思うのですが考えすぎでしょうか?(tonarino-oyaji)