砺波チューリップ公園を流れる水路に蛍が乱舞しているのをご存知ですか。
流域下水道が整備されて水がきれいになり、農薬もあまり使われなくなったから、蛍が育つ環境があちこちに蘇ったようです。整備から30年以上経つチューリップ公園の木々は、蛍たちの隠れ家に最適。枝を揺すると…。蛍さん、ゴメンナサイ!(Pancho)
2010年6月アーカイブ
蛍乱舞
花しょうぶ祭
燕子花図屏風を意識した構図ですが、ちょっと違うかナ
県民公園頼成の森で「花しょうぶ祭」が開かれていました。
27日が見頃でしたが、最終日なんですね。気まぐれ御天気で、係の人たちはさぞ大変だったことでしょう。
入口近く(帰り方向に向いていたから出口?)に、運営協力金の募金BOXが置かれていたのですが、目に留める人はあまりいなかったようですネ
県民公園ですから「有料」はなじまないようですが、かといって運営費は必要だし…
「このような花のイベントを、これからもさらに充実して続けていくために、ご協力をお願いします」と書いてあれば、共鳴する人が多いように思いました。(bunsiti)
庚申様のミステリー
出町神明宮の社の横に、小さな祠があるのを知っていますか。
通称「庚申様」と呼ばれている、猿田彦命を祀る猿田彦社です。猿田彦神は、天狗のような風貌で、導きの神、道の神、境の神とされていますが、江戸中期に庚申信仰と習合したことから、庚申様と呼ばれるようになりました。
創建は安政ニ年(1855)九月、其他不詳と、「砺波市史」「出町のあゆみ」には書かれています。しかし、同じ出町のあゆみの天保年間(1830-1844)の出町絵図には、出町神明宮から杉木へ向かう道の突き当たりに「庚申堂」が書かれています。この庚申堂と現在神明宮横にある庚申様は同じものと考えられますが、いつ頃移転したのかが、謎なのです。
明治八年の置県の資料には一切書かれていないそうですが、明治三十八年に、子供たちが自分の家から学校までの地図を書いた資料には、天保の出町絵図の位置に庚申堂があったそうです。明治三十三年の大火の時に移転した、いや昭和十九年の大火の時だ、という人もいるそうなのです。
安政ニ年創建のものが天保年間の出町絵図に書かれていること自体が第1の謎で、いつ神明宮の境内に移転したのかわからないというのが第2の謎なのです。そもそも両者は同じものなのか、安政ニ年創建説も、怪しいですね。(tonarino-oyaji)
商品の背景
北陸地区で行われる「ビジネスマッチング」とはずいぶん違っていて、買い手も売り手も真剣で、熱気にあふれた会場でした。
いろんな商品が外国産に押され気味の中で、人気のある品はその「背景」が支持され信頼されているのだと思います。
とりわけ食品については、材料や製造過程や作る人や地方の特色に関心が集まっているようです。
地域の特産品となれば、なおさらのことでしょう。
という本人が、大門素麺のことをよく知らなくて、現場へ足を運んだこともなくて、猛反省しています。(bunsiti)
変なチューリップの球根?!
先日、チューリップの畑でウイルス病株の抜取り作業をしていると変な球根を発見!!普通、チューリップの球根は土の中にできるものなのに、葉と茎の間に球根らしきものができていていました。
ユリの一部などで茎の株の節の腋芽が肥大して木子(きご)が出来る場合がありますが、これもチューリップの木子なのだろうか?同じユリ科の植物なので、もしかしたら!ということもあるかもしれませんね。(tulip)
安城七夕祭り
商工会議所の玄関に「七夕」が飾られています。愛知県安城市から今年も「七夕親善大使(美しい女性2名」」が夜高祭りに来てくれました。
8月6・7・8日、日本三大七夕の「安城七夕祭り」へ出かけてみては如何でしょう。3日間で200万人も集まるといわれる盛大なものです。
確か、市の補助もあるはずです・・・
http://www.anjo-tanabata.jp/index.html
七夕親善大使が「花菖蒲祭り」や「夜高」に来訪したり、「となみ産業フェア」に安城から出店するまでには、経済団体や議会やロータリークラブなどの交流の積み重ねは勿論ですが、「土蔵の会」による安城市ボランティアグループとの交流が大きな貢献をしていると思います。
先ほど行われた「民泊試行ツアー」や以前から開催されている「バルーンフェスティバル」の様に、着実に実行していく「市民レベル事業」に目を向けて行きたい。(bunsiti)
美しいシルエット
暗夜に浮かぶ夜高のシルエットは、その美しさに息をのむ
本当に美しいのは「もどり夜高」だと思います
「もどり夜高」というのは勝手に名付けた名ですが、街中の曳き廻しを終え闇の中を町内に帰っていく「哀愁」が、心意気が情景と相まって「美しい」と感じるからです
夜高祭りの2日目の24時過ぎに、町のあちこちで見られます
砺波駅南にもモニュメント
駅前には永原広氏のモニュメントがあるが、実は駅南にも素晴らしい女性像がある。彫刻家堀田清氏製作のチューリップを手にした女性のブロンズ像「フローラ」である。平成11年10月砺波駅南土地区画整理事業の完成を記念して作られたものである。
仏足石の発見
出町真如院前に、仏足石があり驚いた。仏足石とは釈迦が亡くなった後、インド仏教の初期には偶像である仏像は作られず、塔・宝座・法輪などによって仏がそこにあると標識されていた。のちにこれな礼拝の対象になり、仏足石はその産物である。これが仏の象徴として拝まれたのである。つまり石仏の初期のスタイルと云っても過言ではない。市内では安川薬勝寺で拝見することができる。奈良の薬師寺には、天平勝宝五年のものがある(odbt)
砺波駅前のモニュメント
砺波駅前広場に3人の女性像。砺波を代表する日展作家永原広作モニュメント、緑の中に産業と文化名伸びゆく砺波を願い「協力」をテーマにする。何気なくあるが、実は深い想いが込められてある。
散居村の魅力再発見
扇状地の記憶
私は砺波平野の東の端の方で育ちましたが、小さい頃はコンクリートではない土や石垣に囲まれた川がほとんどで、網や釣りでよく魚を獲っていました。また、季節になると野イチゴ、グミ、柿、栗、アケビ、ザクロなど、おやつ代わりに食べたものでした。一番おいしい柿の木はどの家の木か、一番大きい栗がなる木はどの家の木か、みんなが知っていました。遊びも、今になって思うと「よく死ななかったなぁ」と思うようなことをして遊んでいたものです。
しかし、昭和40年代に圃場整備が始まると、平野は一変しました。平野といっても各地に起伏があったのですが、平野はまっ平になり、土や石垣の川はコンクリートの川になってしまいました。昔から変わらないと思っている散居村の景観も大きく変わっているんですね。
掲示した画像は、砺波平野の航空写真(なんかのパンフに載ってました)です。瑞龍寺を水害から守るために締め切られてしまった「千保川」の川跡が確認できるの、わかりますか?(tonarino-oyaji)
とっぺ行灯が点灯
「祭り近し・・・」と、浮き立つ雰囲気を醸し出してくれています
側面に、祭りに協賛している会社や商店の名が入っています。目を留める人が少ないのが残念ですが・・・
町部も村部も、夜高行灯の制作や祭りはほとんどの費用が自費で賄われているのですが、市内事業所もにぎわい創出と地域の絆に力添えされておられます。
(bunsiti)