2010年10月アーカイブ

曳山紹介「築山神事(つきやましんじ)」(高岡市二上)

築山神事.jpg 山は神の降臨する目印であり、大昔には祭場に山の模型(築山)を作り、神を迎える神事が行われ、曳山のルーツはこの築山であると言われています。二上射水神社の築山神事は、この風習を伝える数少ない例として知られています。

  祭は4月23日に行われ、祭当日の早朝、村の人々によって神社の境内にやぐら型の築山が参道中程の三本杉の前に建てられ、杉を伝って神が降りてくるという形が演出されています。築山の一番高い位置には斧を持った天狗人形、前の段には四天王の人形、その下に三本の御幣が飾られます。

 
 神事は午後2時から行われ、源太夫獅子を先頭に二上大伸、院内社、日吉社の舟形神輿が境内を巡り、「天の真名井」と呼ばれる井戸の前で神事が行なわれます。この後、本殿に戻って最後の神事が行われるのですが、この間に築山は急いで解体されます。解体が遅れると、祭に招かれなかった悪王子の神が暴れるためとされています。この神事は2時間ほどで終わる、神秘的な祭です。(tonarino-oyaji)

西町曳山の前部屋根彫刻の原寸大下絵発見

 

20101015_1.jpgのサムネール画像

 

出町の曳山彫刻は、井波の職人による作品であることは既に下絵などから明らかですが、先日西町曳山の二層の屋根前側の下絵が発見されました。井波彫刻の老舗である番匠屋さんで見つかったもので、幅4m高さ2mの原寸大下絵です。下絵には屋根そのものも描かれており、屋根の取り付け方も朱の墨で書かれていました。

 番匠屋さんによると、「明治の始め頃のもので、原寸大の下絵は初めて見ます、それから屋根の曲線や取り付け方も書かれている、大変珍しい貴重な物です」とのことです。曳山会館に展示する場合は、補修する必要があるとのことで、お披露目にはもう少し時間がかかりそうです。(tonarino-oyaji)

20101015_2.jpgのサムネール画像

道しるべの阿弥陀様

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砺波市太田旧商店街の交差点、俗に太田の四つ角の南側に位置するところに小堂があり、そこに堂々と鎮座されている阿弥陀如来坐像がある。「東ふなば 西出町 北高岡 南井波」と彫られている。道の神様のように置かれているが、全国的にはでは道祖神であったり、地蔵であったりするが、真宗王国砺波では阿弥陀様である。(odbutu)

 

 

砺波駅発

2010_10100004web.jpgのサムネール画像コスモスウォッチング行きのバスが砺波駅から1時間おきに出ます。四季彩館の球根祭りを経て夢の平スキー場に向かいます。

公共交通機関利用の人に便利になりました。

(bunsiti)

 

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春を思い浮かべながら・・・

秋も深まり、球根の植え込み時期が近づいてまいりました。

チューリップ四季彩館では、今年で第9回目となる『となみ球根まつり』を開催しており昨日より賑わいをみせています。(10月11日(月祝)まで)会場では、県内産の良質なチューリップ球根が133品種、販売されています。

春に色とりどりのチューリップが咲くのを想像しながら、球根を選ぶのも楽しいものです。

平成22年度チューリップ球根 皇室献上品種の5品種も購入できます!「黒部の太陽」「立山の春」「金魚」「月浪漫」「ありさ」が皇室のお庭を彩ります。同じもので自宅を彩るのもいかがでしょうか?

この機会にぜひご覧下さい。 

(siki)

夜高はなぜ夜に高いと書いて「ヨタカ」と発音するのか

599px-Caprimulgus_indicus_by_OpenCage.jpg第一次調査報告

 江戸時代の「夜鷹」と呼ばれる街娼は、彼女達が客引きをする「ちょっとちょっと」の声が、夜鷹(ヨタカ目ヨタカ科の鳥)の「チョッチョッ」という鳴き声に似ていることから夜鷹と呼ばれるようになったという説があります。
 
 一方、夜高行灯も夜にしか曳かれないことから、日が暮れた頃から曳き回され、水田の向こうに高くそびえる行灯が見えたので、夜鷹を文字って「夜高」「夜高行灯」と呼ばれたんだそうな。
 
 夜高とは本来、行灯を形容する言葉であり、手に持つ小さく素朴な行灯は「とっぺ行灯(とっぺ:豆腐を指す方言)」あるいは「田楽行灯」と呼び、大型の行灯を「夜高行灯」と呼んでいました。
 
 夜高祭りは、行灯を形容する言葉だった「夜高」が大型の行灯そのものを指す名詞として変化してつけられた呼び方ということのようです。(tonarino-oyaji)

砺波はなぜ「トナミ」と発音する地なのか

 先日、ある来館者の方から、この辺りの砺波(トナミと発音)という地名は、なぜトナミなんですか?との質問を受けました。この時は、「奈良時代にこの辺りを治めていた利波臣志留志(トナミノオミシルシ)という豪族がいたことから、利波⇒礪波(砺波)なのです」と答えておきました。

 その後、自分の答えが正しいのかが気になっており、色々な書籍やネットで調べると、いくつかの説があることがわかったので、紹介します。
 
一 利波氏が治めていたから
奈良時代、この辺りは東大寺の荘園が広がる地で、以前から地方豪族である利波氏が支配していたので、利波(トナミ)と呼ばれた。
 
二 鳥網(トリアミ)が訛ってトナミになった
山の谷になったところに鳥網を張って、谷を通る鳥を捕獲する人たちがいたことから、トリアミ⇒トナミとなった。
 
三 山々が連なり波打つようだったから
ここでいう山々とは、高岡から福岡町、小矢部市に連なる山々で、谷間や山々が幾重にも出入りしている地形であり、「ト」は場所を示す語であることから、波打つような山々があるところという意味で、トナミと呼ばれた。
この説によると、トナミとは元々小矢部から高岡西部の丘陵に連なる山々を呼んでいたものが、平野部が開発されるに従い、トナミが平野部に移動・拡大してきたものだということです。
 
 他にも色々な説があるようです。いずれにしても古来、単に発音のみで地名を呼んでいたものを、5世紀頃に中国から漢字が伝来し、地名も漢字で表記されるようになりました。しかし、これは当て字であり、地名の本来の意味をその漢字が表しているとは言えない場合が多いようです。
 
 そうそう、もう一つ、「夜高はなぜヨタカなんですか」とも聞かれました。情報待ってます。(tonarino-oyaji)

若い衆の造立した観音様

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この観音様は砺波市秋元にあり、縁結びの観音様として知られ、今も多くの参拝者があります。「願主 當所若連中」とあります。つまり青年団が願主となり建立しています。明治のこの時期、青年たちは実に生き生きとしていました。こんな青年たちに支えられ、真宗の風土が形成されました。来月砺波美術館では「砺波の真宗風土」展を開催予定ですsDSC_0003.jpg

 

 

 

「砺波野の芸術家たち」連載開始

 砺波市美術館で10月11日まで開かれている清原啓一展を見ました。暗い色調で軍鶏を描いた初期の作品から、赤や緑の明るくきらびやかな色彩の中で無心に遊ぶ鶏を描い晩年の作品まで38点が並び、清原さんの歩みのすべてをたどれます。(詳しくは、「砺波野イベントカレンダー」http://event.tonamino.jp/をごらんください)
連載.jpg 四半世紀も前、清原さんにお話を伺ったことがあります。疎開中の棟方志功に会ったこと、東京へ出て、自宅に鶏を飼い、来る日も来る日もデッサンを続けたこと、軍鶏の猛々しい闘争本能に強い刺激を受けたこと…などを話していただきました。大変、眼光の鋭い方という印象でした。
 先般のアーティストトークで、交遊の深かった藤森兼明さんが、「清原さんは、農家の跡取り息子でありながら故郷を捨てた罪悪感をばねに、鶏に自らの生き様を託して描き続けた」と話していました。まさに、絵筆を持った戦いだったのでしょう。
 砺波野の人々はは、一見、保守的で穏やかなようですが、中越鉄道の大矢四郎兵衛のように、うちに秘めたものは大変猛々しく、進取の気風にあふれているように思います。そして、清原啓一さん、藤森兼明さんもしかりです。
 砺波野JP(http://tonamino.jp/)ではそんな砺波野の芸術家たちを紹介する連載「砺波野の芸術家たち」(http://tonamino.jp/shiru/post_77.html)が始まりました。筆者は県内の美術館で活躍するベテラン学芸員のSさん。第一回目は、多くの砺波地方の作家を育てた川辺外治さんです。ぜひ多くの方に読んでほしいものです。(Pancho)
 

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