芹谷山千光寺の石塔

はじめに

 真言宗や天台宗の寺院は俗の世界を離れ、修学研鑽の場として山岳などにあった。そのため伽藍までの参道が長く石塔などで、その距離や方向を示した例が多くある。 砺波市三合新にある「石塔」もその類であり銘文に「芹谷山観音道 従是八町」とある。一町が109メートルであるので、千光寺まで約890メートルであることを示している。

 今回この石塔の二回目の修復工事が千光寺の秘仏観世音菩薩像御開帳法要が開催される年に成された。それを契機にこの小論を記す。

石塔の現状

 庄川右岸の芹谷段丘通る古い旧道がある。旧北陸道の中田・戸出線の常国弓の清水から松原新・増山・福岡を経て三谷へとたどる巡見使道と云われる道である。 この石塔のある地点の段丘下には俗に「岩神」と云われる徳万下村の五社神社がある。また「芹谷山千光寺拝領地絵図」(文政八年九月 千光寺蔵)には、 この石塔から千光寺の「参道」が記されている。ちなみに巡見使道は「井波往来」とある。

 この石塔は文政五年(1822)四月五日に倒れ、修復されている。その後戦後除雪車によって倒れ、有識者にはこの石塔の重要性は認識されてはいたが放置状態であった。 平成六年五月三日千光寺の石造物調査として、金子宰大・金平正二・平井一雄・片山等・尾田武雄等と拓本の採拓や計量等を行なった。 拓本など金子宰大氏の実測図が砺波郷土資料館の第二十四回先人展「真言の古刹 芹谷山千光寺の方丈さんたち」で展示され、多くの市民に認知され修復が期待されていた。

銘文など

(正面)

「梵字サ(聖観音)煌苦?(※1)福生霊旧理救殃脱咎□□畏無苦□海印

 麁妙等応像梵国見大□鎮此萬流□□功至龍庭        」

(右側面)

「芹谷山観音道 従是八町」

(背面)

「石工 井波善太□(郎)」

(左側面)

「?(※2)延享甲子秋南呂穀旦 千光寺五十七代僧性海粛誌」

正面の銘文について

(正面銘文の意味)

苦しみから逃れ、幸福に生きることは生きものの本性であり、その願いをかなえるのが仏である。 千光寺の本尊観音さまは、天竺からこの地に来られ、大宝年間からまつられているが、皆さんお参りになってあらたかなお力を受けられるがよい

(金子宰大解読)

延享甲子秋南呂穀旦 千光寺五十七代僧性海粛誌について

 ?(※2)は「時」の異体字であり、「延享甲子秋南呂穀旦」の延享甲子は延享元年で西暦1744年である。南呂は八月である。 千光寺五十七代性海は宝暦八年(1758)に千光寺を去っている。その後金沢の明王院へ移り天明七年(1787)に「両部神道寶輪鈔」を著している。その頃の弟子行遍があとがきを書いている。 ちなみに行遍はのちの千光寺六十四代となっている。また客殿(本殿)を宝暦元年(1760)に発願して材料を用意し、十年後に六十代光遍の時に完成している。

芹谷山観音道 従是八町について

 この石塔から千光寺の参道でありことは「芹谷山千光寺拝領地絵図」(文政八年九月 千光寺蔵)で明らかである。この石塔から「参道」と記されている。 巡見使道は「井波往来」とある。一町が109メートルであるので、千光寺まで約890メートルであることを示している。この参道については、「第二十二大区小二区越中国砺波郡頼成新村」(永田又六家蔵)にも記されている。 また石塔のある地所の小字が「字石塔」となっている。またこの参道を境界に字中居・字中島・字宮島などがあり、この参道は重要な役割を果たしていたことになる。

石工 井波善太□(郎)

 背面に「石工 井波善太 」と刻まれている。郎は読めないがこれは「郎」であろう。 『井波町史下巻』によると享保十八年(1733)に石山希望者に百五十匁の役銀とひきかえで採掘させた。以後採掘権は、特定の人に与えられ売買の対象になった。 (「町中末々困窮に付助成願書」三十頁。『井波町史下巻』百十三頁)。それから約十年後の延享元年(1744)千光寺石塔が造られ、「石工井波善太郎」の銘が残る。

 井波の石工としては延享五年(1748)には「石仏出来開眼井波石屋作」(『医王は語る』P参百八十七頁・福光町法船寺文書)がある。 その後天明七年(1787)新たに石山を開き、北川村の石屋善太郎に一年銀二十匁で採掘権を与えた。(「石切山請場所詮議願書」『井波町史』496) 享和三年(1803)金屋岩黒村石工伊右衛門と清左衛門石切り場境争論一件(井波肝煎文書)が起り金屋の石工の台頭が始まるのである。 この石工善太郎は千光寺三門前にある葷酒塔や鐘楼堂ある場所の上に安置される石仏なども製作している。

文政五年石塔が倒れた件の文書

 砺波郷土資料館編『砺波市歴史資料調査報告書第十三集−千光寺文書目録―』(平成十四年発刊)に文書「西往来口に観音道と彫付の立石打折につき届書」(2007)がある。 それを紹介する。

 拙寺観音堂より八丁斗西往来より入口ニ

長七尺幅壱尺四寸観音通与彫付有之

立石先々より立置候処先月十五日夜何

者仕業ニ御座候哉三ツニ打折置申義

翌朝見付申ニ付不審成義密ニ相

志らべ候得共夜中致申事故相志らべ兼申候

変成義ニ御座候ニ付御注進申上候  以上


文政五年七月      芹谷村   千光寺

魚津御役所

同文


 寺社御奉行所

この文書によると、文政五年六月十五日夜に何者かによって石塔が倒され、奉行所に届書を出した文書である。この時代に不届きなものがいたのであろうか。

修復の経過報告

   

 平成十六年夏に、有限会社丹川石材の丹川和夫氏が、石戸宅に石燈籠を設置されに来られた際に、この石塔が倒れ無残な状況に、「もったいない」と感じられ何とか再建できないものかと思案をされていた。 そんな折斉藤建工株式会社社長で千光寺檀家である斉藤善次郎氏が、この石塔について観音様御開帳に向けて、修復を検討されていることを丹川氏に告げられたのである。

 丹川氏は芹谷というところの地所で、工場兼事務所を構えていることなどで、「千光寺様のお陰で仕事をさせていただいている」ということで、「修復作業はぜひ当方で」と申し込まれた。 平成十七年九月に、「千光寺様の心が入っている石塔」ということで、石塔を木箱に入れ丁重に扱われていた。また周囲を鉄筋で養生し将に赤子を扱うように丁寧な作業をされた。 石塔の棹石の下段で折れていたので作業は難渋され、石塔の中には御影石の臍を埋め込み二度と折れないようにされたのである。

 石塔の立つ地所は石戸臣夫氏であるが、ご寄付をいただいた。基礎工事は栴檀野自治振興会長山本康悦氏ら芹谷有志で、作業をされた。 また石塔の折れた部分の修復は左官職柳瀬岩蔵氏が関わった。鉄筋で養生された松浦鉄工所社長憲一氏など多くの方々のご協力を得て完成した。 工事を行なった丹川氏は、長く先祖が大事にしてきた石塔の修復に関われて感謝と誇りを感じるとされている。

終わりに

 平成十八年千光寺の観世音菩薩ご開帳を縁に、石塔が修復され喜びに耐えない。 その修復が地元住民によるものであることは、千光寺が地元で大事にされ愛されている証拠でもある。このように千光寺の文化遺産が保存活用されることによって、市民の身近なものになるであろう。 今後増山城を中心として国指定文化財に指定されることになると、当然千光寺も重要なポイントとなるはずである。 またこの石塔の修復によって千光寺参道の復元が具体化され、史跡公園として市民の活用されることであろう。

 栴檀野段丘を蛇行して流れる和田川。鬱蒼とした杉木立に囲まれた伽藍、大宝三年(七0三)、天竺(インド)より渡来した法道上人によって開かれたとされ、 以後中世にかけて皇室の祈願所として栄えていたが、戦国時代には度々戦場となり寺宝や史料等が焼失した。江戸時代加賀藩下には、二代藩主前田利長より寺領を受け藩の祈願所として手厚い保護を受けてきた。 境内入口の地蔵堂は総欅造りであり、山門は寛政九年(一七九七)建立、観音堂は文政二年(一八一九)に再建されている。書院は明治の名工藤井助之?(じょう)の作で、粋を凝らした贅沢な造りになっている。 一間薬医門としては北陸三県で最古とされる御幸門、これらすべて砺波市指定文化財である。ほかに三点の富山県指定文化財があり、和洋折衷の意匠と鏝絵が特徴の土蔵、本堂、回廊、観音堂廻りの石垣、 豊かな寺叢や埋蔵文化財、古書籍や古文書等々、豊富な文化遺産があり、石塔の修復は真言の学府と知られた千光寺は市民の学習の場となり、いよいよこの空間や年中行事を含めた千光寺博物館が夢でなくなる日が近くなった。

平成十八年五月千光寺観世音菩薩御開帳の日

千光寺古文書調査団長 尾田武雄

(※1)は、斤と力を並べた字。(※2)は、日と寺を重ねた字。