別所と鬼ケ城(安川城)、製鉄伝承

別所と鬼ケ城、製鉄伝承

尾田武雄

1、 鬼ケ城 砺波市東別所に鬼ケ城という山城がある。別名浅谷城や安川城とも呼ばれている。これは和田川左岸の浅谷・塩谷両集落の南方にあるものである。「宝暦十四年二月砺波郡古城跡山塚寺社古跡等書上帳」や「越中古城記」などには鬼ケ城として記載されている。このことについては高岡徹氏の「増山城の攻防 安川城」(『砺波市史資料編1 考古 古代・中世』)に詳しく述べられている。またこの城に関する資料が掲げられ、詳しく述べられてある。その中の『越中旧事記』には「浅野谷 古城(是を鬼ケ城といふ、むかし鬼の住し処なとといふあやしきこと也)」などが目に付く、また鬼ケ城の「鬼」についても言及されている。鬼ケ城にいたといわれる荘園領主や幕府に反対していた、黒田太左衛門等の悪党を鬼としてとらえられている。つまり社会の秩序を乱す者という意味から、その勢力の本拠として、立て篭もった城郭ではないかと推察されている。 般若野荘と薬勝寺鬼ケ城は砺波市安川にあり安川城とも呼ばれている。安川は庄川右岸に位置し中世には京都の公家徳大寺家の荘園として知られ、現在臨済宗国泰寺派に属する薬勝寺がある。この般若野荘と薬勝寺の関係は佐伯安一執筆編集『薬勝寺誌』に詳しい。薬勝寺の山号は般若山と称しているが、この地域に広がっていた般若野荘に因んでいる。現在の砺波市庄川町三谷から般若・東般若・般若野・中田・栴檀野・栴檀山・太田・柳瀬・南般若・北般若に及ぶ広い範であった。鬼ケ城も当然この中に入るのである。また鬼ケ城そのものも般若野荘を無視できない存在であり、その影響下にあったといえる。まだ庄川が現在の流路へ移る以前であったから、これらの地域は一続きの地帯であり、旧千保川あたりがその西限であった。領主は京都の公家徳大寺家で、般若野荘の成立する平安時代末から戦国時代まで四百年余りの間、同家の根本所領として曲がりなりにも変わることがなかった。伝領の変遷がめまぐるしい荘園時代にあって、これは稀有な事例である。在地勢力が活発化したころ、その妥協策として下地中分が行なわれ荘園の地を領家方と地頭方に折半することで、この荘では少なくても南北朝の十四世紀末まで行なわれていたようである。しかし領主方への荘園侵害は進み、徳大寺家では応仁の乱も終わりに近い文明六年(1474)に大納言徳大寺実淳が家領確認のために越中へ下向している。それから孫の実通が天文十四年(1545)に下向したが、地元の武家・荘民の違乱により殺害されるという「先代未聞の儀、言語同断の儀」(『言継卿記』)が起こった。いわゆる下克上の時代を象徴しているが、この事件後徳大寺家領般若野荘は終焉をとげるのである。そしてこの事件で殺害された親王を弔ったのが薬勝寺南墓地の親王塚とされ、また公卿を弔った塚を公卿塚といわれている。鬼ケ城が安川地内にあり、この事件や薬勝寺とも大いにかかわりがあると思われる。鬼ケ城主黒田と薬勝寺地元の地誌『般若村郷土誌』(般若尋常高等小学校編 昭和初期成立か)に鬼ケ城のことが記されている「鬼ケ城 一ニ浅谷城ト云フ城跡ハ安川字父倉山中ニアリ故ニ安川城トモ云フ長禄年中黒田太左衛門般若野ノ荘官トナリ党ヲ結ビテ此ニ拠リ暴逆ヲ恣ニセリ但シ天文七年ニ至リ城主ハ長尾氏ニ殺サル」とある。この伝承は『越の下草』にも載せられている「安川より道程一里許、淳良親王安川村に御在住の間、黒田太左衛門といふ侍、此城に般若郷を守護せしよしいひ伝ふ。其後太左衛門尉野心を起、野党を従ひ我威を振ひしによつて、被攻潰其党亡ひし処なりといふ。城跡の辺に古池あり、下の谷を垣の谷といふ。又東の方に馬塚とい処あり。」とある。鬼ケ城は標高百九十二メートルあり、般若野荘を俯瞰することができる。この荘域を意識した城であろう。また淳良親王と黒田太左衛門は関係がありそうであり、薬勝寺の檀家の中にも黒田姓が多々見えけられる。鬼ケ城の南真下に隠れ里のようにある大畑に二軒の家があったが、一軒は黒田姓であり、何か暗示しているようである。ところで薬勝寺は、その由緒書「般若山薬勝寺由来」(文化三年・薬勝寺文書)よる「當寺宝珠山薬勝寺者、承暦三辰年開闢仕、真言宗ニ御座候」とあり、現在は臨済宗国泰寺派であるが元は真言宗と伝えている。 ところで若尾五雄 著『鬼伝説の研究』等では、全国各地に鬼伝説をさまざまな角度から鉱山の関係をさぐり、修験者と鉱山資源との関わりを調べ、山岳宗教や修験道の解明につながる大きい謎を解明している。また鬼が金工・鉱山に関わりを強く説かれている。また若尾五雄や佐藤任らによって『真言密教と古代金属文化』の著書があり、真言宗と産鉄・製鉄などの金属文化が説かれている。

2、 別所とその周辺の産鉄伝承 

富山県に別所の付く地名が十ヶ所あり、鬼ケ城のある浅谷の近くには東別所がある。江戸期には別所村であったが、明治12年の郡区町村編成法施行の頃、砺波郡内に同名村があったために「東」を入れて東別所とした。ちなみに西の別所は別所滝(現小矢部市)と改称している。柴田弘武著『鉄と俘囚の古代史』の中に紹介されている京都市相楽郡和束町別所鷲峰山(じゅぶせん)にある「鬼ケ城」の小字や鷲峰山金胎寺、そしてそこにはマンガン鉄の産地であることが、東別所との類似点に関心が向かれる。この別所について柴田弘武氏の著書で多くのことを得たので東別所について調査したことを報告しておきたい。さて別所とはなにかということで、柴田氏は菊地山哉氏の説を継承し、古代における俘囚移配地と考えられるとされている。楠原祐介・溝手理太郎編『地名用語語源辞典』の「別所」には「①古代、蝦夷の虜囚を各地に移住させた所[菊地山哉]。②本寺と別に、修行僧が移り住んだ所。別院。③本所に対し、別に立てられた所領。別名。④墓地(『日葡辞書』)【解説】①説は一部で根強く流布されているが、あまり根拠がないと思われる」とある。東別所のある栴檀山では②の説を『栴檀山史』で採っている。 さて別所と産鉄については、柴田氏の著書に詳しく述べてあるが、東別所と産鉄やそれに関わる伝承や地名など検討しておきたい。 ・ 別所の堂宮について正徳二年(1712)に加賀藩が書き上げさせた「正徳二年九月堂宮社人山伏持分并百姓持分相守申品書上ケ申帳」(俗に「正徳二年社号帳」という)がある。これによると別所には、五社権現・天神・八幡の三社があり五社権現は砺波郡頼成村丹波持分で、天神・八幡は同郡安川村伊勢持分となっている。別所は和田川上流に開けた谷間に位置するが、上・中・下と三つの小集落を成しており、上から天神、五社権現、八幡と配されている。現在はそれぞれ天満宮、牛嶽神社、八幡社と社名が変わってきている。天満宮 「正徳二年社号帳」によると、天神の宮になる。東別所の上村に位置する。和田川が「く」の字に曲がるところの小高い山の中腹にこの神社がある。ちょうど南向きであるがこの前が「ミョウケン田」といわれる所で、現在砺波市久泉にある別所山光円寺の開祖妙見の住んだ地とされている。また天満宮の北側の山腹にテラス状の所があり、そこが光円寺跡として伝えられている。この天神が妙見と多いに関わりが意識されるのである。ところで若尾五雄 氏著『黄金と百足 鉱山民俗学への道』では妙見信仰と鉱山の痕跡を述べられ,妙見や虚空蔵菩薩などの星や空には、鉱山が関係していると言われるのである。ちなみに妙見菩薩は北極星あるいは北斗七星を神格化した菩薩である。 現在天満宮として祭神は菅原大神、天穂日命、水波能売命の三柱が祀られているが、古い時代には単に「天神」つまり天の神を祀っていたのであろう。東別所上村の南部に「イモジ谷」といわれるところがある。これは鋳物師(いもじ)谷であろう。・ 牛嶽神社東別所の中村に牛嶽神社がある。「正徳二年社号帳」によると五社権現に配されるものである。五社権現について言及しておきたい。是は能登半島の頚部にある石動山天平寺の分霊社なのであろう。この石動山には五社があり、大宮(伊弉諾命=虚空蔵菩薩)・客人宮(伊弉冉命=十一面観音)・火宮(大物主神=聖観音)・梅宮(天目一箇命=将軍地蔵)・剣宮(市杵島媛命=倶利伽羅不動)である。その内大宮の虚空蔵菩薩、梅宮も天目一箇命には鉱山のイメージが強くある。・ 薬師東別所下村の西側で鬼ケ城の入り口に浅谷集落がある。そこには現在神明社があるが、「正徳二年社号帳」によると薬師とある。薬師はこの社号帳では砺波郡では小杉と二社だけの珍しいものである。さて柴田弘武氏著『鉄と俘囚の古代史』によると「別所には伝慈覚大師建立の寺(薬師堂)がある」としている。これは慈覚大師伝承が、円仁慈覚大師が俘囚教化のため東国を巡錫して仏堂を建立した事実があったからといわれている。産鉄の地に薬師が祀られる場合が多いという。ところで薬勝寺文書の文化三年「般若山薬勝寺由来」(薬勝寺蔵)には「當寺宝珠山薬勝寺者、承暦三辰年開闢仕、真言宗ニ御座候。其時之本尊弘法大師之作、薬師如来安置仕来リ」とある。この浅谷には浅島・浅原・浅野・浅長と「浅」の名の付く姓が多い。多いというより丹川姓のほか全部である。谷川健一氏は吉野裕氏の「麻(あさ・サ)は砂鉄のの意味である」と言う説を、「サまたソが古代朝鮮語で鉄を示すことからして吉野説には賛成できる」とされている。産鉄地には、浅や麻の字の付く地名が多いとされている。またここの住人のすべてが砺波市秋元の浄土真宗本願寺派光福寺の檀家である。この寺は南北朝期に開基年と元天台宗であったという伝承を持つ寺院である。

3、 塩谷について

 浅谷集落の中に、塩谷という所がある。「塩谷は、塩分を含んだ湧水のあることから塩谷という名が起こった。伝承によれば昔、弘法大師がこの地に巡錫の折、人々にこの湧水のある事を教えた。その後、人々は食物の味付けにしたり、切り傷の治療にしてその恩恵を受けてきた。これは弘法大師の法力によるものとして、村人の間に永く語りつがれてきた」(『栴檀山村史』)とある。吉野裕氏はこのような弘法大師伝説は産鉄伝承と関わりが深いと指摘されている。こうした伝承の背後には佐藤任氏著『空海と錬金術』のように「実際に杖を用いて水脈や鉱脈を探査した修験者または技術者がいたと解釈すべきだ」とされている。五来重氏や若尾五雄 氏等の修験者が金工の徒であったとされる説を鵜呑みすると、塩谷に着た弘法大師は修験者であった可能性が大きい。塩谷には元天神の神社があったが現在は本村の栃上集落の栃上神社に合祀されている。天神も修験者のイメージが付きまとっている。伏木谷の「金塚」伝承 東別所集落の近くに伏木谷集落がある。ここに金塚にまつわる伝承がある。 むかし、伏木谷に、どこからか、七・八人の旅人がやってきました。そして「おお、これは大そうふしぎな山だ。みんなでこの山に、ねんぶつをとなえたら、山からお金がざくざくでるだろう。」といいました。 はじめのうちは、だれも本気にしませんでしたが、あまりねっしんなので、だんだん、その話に、心をひかれました。そして、ためしに、炭小屋に集まって、ねんぶつをとなえることにしました。夜どおしにねんぶつして、うらの山をほりましたが、お金はでませんでした。旅人たちは「信心がたりないからだ。」といいました。 村人たちは、山から木を切り出して、お宮さんをたてておいのりをしました。冬は赤はげという炭小屋で、春は、うらの山までいって、ねんぶつをしました。けれども、お金はでませんでした。 お金はでなかったのですが、その山の、掘った場所を、金塚と名づけました。                              (『となみ昔むかし』)この伝承は旅人は修験者で、金属類を掘るために念仏という、儀式と作法を行ったのであろうことが暗示されている。

4、 丹川姓について

浅谷集落から鬼ケ城の入り口に丹川家がある。珍しい姓なので当主の丹川和央(昭和15年10月20日生れ・当家4代目)にいろいろお聞きした(平成15年1月17日)。まず鬼ケ城についてはここに鬼が住んでいると小さいときから聞いていた。七尺の大男で人の生き血を飲んで生活をしていたという。叱られた時には鬼が来ると言われ、本当に怖かったという。しかし城主は上杉謙信に簡単に落城したという。地元では浅谷城や鬼の居る鬼ケ城と呼んでいて、安川城とは呼んでいない。当家は分家で本家は「丹川元」という姓で、蔵が七つもある裕福な家であったが、貧乏をして蔵など全部売り払い北海道へ明治時代に行かれた。本家の遺品として「鉄瓶(鉄鍋)」を頂いたが、今は無くなった。また家には刀が残されていて、竹などがきれいに切れた。しかしその刀も現在は無い。本家の丹川元は農業だけで富と蓄えたのではないような気がする。浅谷城付近には「地獄のため池」「弁慶の足跡」などがあった。また近くからはカワラケどが出土するところがある。城の付近には水の出るところがあるが塩谷集落の弘法清のような塩分の含んだ水が出るところもある。また所により鉄分の含んだ水もあり、石などが赤く色づいているのがある。  さて丹川姓の丹であるが、『広辞苑』によると「①赤土。硫黄と水銀との化合したもの。②あか。あか色。③まごころ。④オレンジ色の日本の画顔料。⑤精錬した薬。道教で不老不死の薬。⑥丸薬の名に添える語。⑦丹波・丹後国の略。」とある。また丹生神社などもイメージされる。この丹には水銀や鉄の錆びなどが意識され鉱山がこの地かくあったのであろうか。また丹川家に伝わったとされる本家「丹川元」からの遺品鉄瓶や刀が、気になるところである。現在丹川和央氏が石工を生業としておられ、金属採取従事者としてのの血が流れているような気がしてならない。

5、富山市金屋の長助

 丹川和央氏を訪ねてから、こんな話を聞いた。数ヶ月前に富山市金屋の村澤清人さんという方が、浅谷の出身で調査に来られたと言う。金屋という事で興味深く感じたので、連絡をとり多くのことを御教示いただいた。先祖は村澤長助といい石碑が立てられているという碑文は「顕彰 村澤長助 加賀藩郷頭・富山藩十村牛ケ首用水湯大将トシテ慶安ヨリ貞享年貢献ス」とある。この長助に関しては『肯構泉達録』に出てくる人物である。それは巻之四の「桃井播磨守直常の事」に表れる「桃井、越後に戦ひ、荒井、泉山等を亡ぼせし時、泰信が後胤、鬼一若狭守泰旧、桃井が幕下に属す。十郎泰弘はその子なり。泰弘、智勇ある人ゆゑ、与力する人多し。直常、肱股と頼みしなり。この人、砺波郡浅野谷という所に城を構へて居住す。直常、関野に戦へる時も、後詰して、直常をこの城へ迎へ入れたり。敵、手痛く城を攻むれども疼まず。鬼一繞勇なれば、この城を鬼が城と称せしとなり。鬼一が武名の今朽ちざる所謂なり。泰弘、直常と死を同じうせしとき、跡に四歳の男子と当才の女子ありしを、泰弘が従弟、渋谷隼人が家に養はる。隼人は戦場にて眼を射られ、馬より墜ちしが、敵走せ来りて右の肘を打ち落せり。隼人が郎等、敵を退け、隼人を援け帰りしが、不具なる男となり、入道し、一向宗の法を説いて安田村に住す。ここを安田道場と号す。今、中堂寺これなり。泰弘が二子女は同村へ嫁し、男は渋谷権吉郎と称して金屋村に住せり。今金屋村長助が先なりといへり」とある。 この金屋村長助の末裔が村澤清人氏なのである。ここでは浅谷の城主が鬼一という武将であったとしている。この説は『越の下草』の中でも朱書で記載されている。ここで注目したいのは、産鉄と関わりあると思われる浅谷集落と富山市金屋がとが結ぶということ、またその子泰弘が眼を射られたという伝承に、産鉄の神とされる天目一箇命がイメージされる。またこの金屋には現在安川姓などがあるという。この地方との関わりが暗示される。 ところでこの浅谷集落の全所帯が砺波市秋元の浄土真宗本願寺派光福寺の門徒である。この光福寺は桃井姓を名乗り、桃井直常の子孫という伝承を持つ寺院であることも興味深いことである。  

 6、 朝日長者伝説

 「別所七山」ついて『越中地誌』(青木北海著・文化文政頃の発刊)には、次ぎのような伝承を記している。「同記(『越中旧事記』)云此山ハ山ノ尾七ツ喰違ヒ出テ、其際ヲ谷川メグリ流レテ、景色好所ナリ、伝云昔、頼成ト云有福ノ者有テ、一人ノ娘ヲモチタリ、其娘容貌世ニタグヒナク、美シカリケレハ心ヲ寄スル人多カリケリ、或時頼成云ニハ此高ノ穴田ノ地ハ、水ノ手ヨリ無野ナリ是ヘ水ヲ揚ル人アラバ、我娘ノムコニセント、アマ子ク云ヒ伝ヘケル然ルニ、アル日一人ノ男来リテ、伝聞クコトク此野ニ水ヲ揚ナラ娘ヲ予ニ与ヘ玉フヤト云ハ、頼成答テ、イカクモマウヰラセント諾シケル然ルニ、其夜彼男後ノ山ヲ突抜テ水ヲ野ヘ揚ナントスルヲ、頼成大ニ驚キ、是人間ノ業ニアラズ、マタク竜蛇ノ業ナルベシ思ヒ合スル事アリトテ、多クノ人夫ヲ呼集テ、其水口ヲ禦テ是ヲ止ム、猶其水を禦カン為ニ処々ニ山ヲ築タルカ、則今ノ七山ナリト里人ノ談ナリ、此辺ニ頼成村ト云アリ、頼成ノ住セシ跡ナリ云」 別所七山はどの山を示しているのかは解らないが、こんな伝承が『越中旧事記』に載せられているのである。この本は編者不明であるが、越中に関する歴史・伝説・地誌の編纂物として最も風格のある書物とされている。 これを要約すると、別所七山の頼成長者にはとても美しい娘があった。婿をもらう年頃に近隣に次ぎのようなお触れを出した。「この高の穴田の野は、四方水の便がない。もしこの野に水を揚げて、田とすることができる者がおれば、わが娘を娶らせよう」ある日、一人の若者がやって来て、長者に約束を迫った。「この野に水を揚げれば、この私でも婿にしますか」と言い。長者は快諾した。 その夜、うしろの山を突きぬいで川水が穴田に向かって流れてきた。これを知った長者は、「これは人間業ではない。きっと竜蛇の仕業に違いない。娘はやれぬ」といって人夫をかり集め水口をふさごうとした。一方の水を止めると、別のほうから流れ込もうとするので、長者はそのつど指示して、ついに水をせき止め、娘を竜蛇に娶られずにすんだという。 この別所七山の頼成長者にまつわる伝承に出てくる若者こそが、金掘りの技術を持った人物であろうと思わる。またこの別所七山長者には次ぎのような伝承もある。(「蜆の長者」名越仁風著『古代砺波の研究』所収) 昔々婦負郡の北代村に、近隣に聞こえた長者様がいた。ある時、山続きである砺波郡の別所七山の長者と、宝くらべをすることになった。「私の持っている金銀サンゴは、お前さんより、あの立山の高さほども違うさ」「とんでもない神通川の長さほど、私の方がよけい持っているさ」自慢のしあいでなかなか勝負がつかない。この宝くらべに二人の長者はあきあきして「いっそ二人がそれぞれ宝をかくし、宝のかくし場所のなぞ解きごっこをやろうじゃないか。勿論かくし場所を発見したものが、その宝の持ち主になるんだ」ということに相談がまとまった。まず別所七山の長者がなぞを出した。それはこういうものだった。「一月又一月、両月共皆半偏、何程の無りょうの罪があるとてもみ仏まいれ助け玉うぞ」次ぎに北代の長者の宝物かくし場というのは「漆千ばい、黄金の鶏が一つがい、朝日さす、夕日輝く木の下に、三ツ葉ウズギの下にある」と北代の長者はいった。「一月又一月、両月共に皆半べんと言うから、これは用と言う字だな。どこを用いてかくしてある訳だが、さて次ぎがなんかいじゃて」七山長者はにっこり笑って「解けた解けたぞ、うまいなぞだが私にはもう分かった。もう夕日が落ちているから、あした朝日がさす時に、ズバリと宝の在りかを見せようぞ」と言った。 さて翌朝のこと、立山の肩あたりから太陽が顔を出すと、さんらんたる光線は、長者の邸内のウズギの木に集まった。「ほれこれさ」七山の長者がウズギの繁みをかき分けると、そこに大きな穴があいていて、トサカからツメまで黄金色した一つがいの鶏がいた。「さ、これはもう私のものだよ、頂いて行くよ」この声をかけても、北代の長者はまだ居間で、ひたいに汗して七山の長者の出したなぞ歌を考えている。「もう君は宝物の黄金の鶏を失ったんだから、長者ではないんだ」くやしそうに七山の長者をながめると、こんどは一夜の内に、すっかりくぼんでしまった眼をカッと開いて例のなぞの歌を見つめるのだ。「長者でなくなったばかりか、まだこのなぞが解けないなんて」そう言って北代の長者は泣き出した。七山の長者は、さすがにあわれに思った。「それではなぞ解きのヒントをして私は帰るよ」そう言ってなぞ歌の各行の文句の上下に○印をつけた。 なにほどのむりょうのつみがあるとてもみほとけまいれたすけたもうぞ 北代の長者はいろいろして、この文字を読んでいたが、やがてハタとヒザをたたいた。「わかったわかった、それはあのなむあみだなのだ。七山の長者め、宝物を御仏殿にかくしておいたのか」やっとなぞを解いた時には、七山の長者が、黄金の鶏を始め、蜆の長者の宝物という宝物をば、すっかり車に積んで、七山に帰りついたところであった。  北代の長者が「漆千ばい、黄金の鶏が一つがい、朝日さす、夕日輝く木の下に、三ツ葉ウズギの下にある」には、朝日夕日伝説が内臓しており、これには谷川健一氏「鉱山と関わる朝日長者伝説の明白な実例(『青銅の神の足跡』)と述べられている。ただ残念なのは、この伝承が東別所には伝わっていないことである。 

 7、 増山の製鉄遺跡とその周辺  

富山県射水平野の後背地にある丘陵地帯には、須恵器を焼いた窯跡と鉄生産ののための製鉄炉・炭窯、そしてその生産にたずさわった工人の住居や作業場などの遺跡が数多く残っている。丘陵地帯は、傾斜地のある地形、耐火度のある粘土、燃料になる薪、そして水があるなど、窯や炉を築くのに適した条件が整っていた。 生産遺跡は、北は大門町水戸田、小杉町黒河、南は富山市平岡、西は砺波市福岡、東は富山市呉羽から古沢にかけての東西役13キロメートル、南北12キロメートルの範囲である。(『小杉町史』)またこれを射水・呉羽・砺波三つのブロックに分けられ、別所周辺は砺波ブロックに入る。 最近の調査で、砺波市増山の増山製鉄遺跡群(『砺波市史 資料編考古古代・中世』)がある。奈良時代前半を中心とする古相といわれている。また柴田弘武氏が「蝦夷征伐の真相 第三節越中の別所(続)五、富山県砺波市東別所」(月刊『状況と主体』113号 1985年5月発行)でも「浅谷は『越中国絵図屏風』(近世初頭)には『麻谷』と記されていることで、麻は産鉄に通ずる語である。その他芹谷に吹上、宇佐美谷、頼成新に宇佐美塚、宇佐美谷、吹場、上和田に金場谷、湯場、増山に金クソ山、中山、焼山、尺末谷、野金島、徳万には五十浜、イカ浜、イカ浜谷、徳万新には烏賊浜、烏賊浜東などの小字がみられる。宇佐美や尺味はサミ=サヒであろう。イカは五十に由来するのであろう。福岡、福山の地名も見逃せない」として、東別所付近の産鉄に関わりのある地名を産出されている。 また『小杉町史』では「射水丘陵での鉄の生産は国府が直接関わっていた可能性が高い。鉄が蝦夷征伐のための軍事物資であった可能性も考えられることや、鉄生産遺跡が、国府と12キロメートルから25キロメートルの近い所に位置することから、そのように考えることができるだろう」としている。砺波市東別所はこの射水丘陵の南端にあたるので、示唆のある言葉であろう。 

8、 おわりに 

砺波の地名の語源について森田柿園はその著『越中志徴』で「鳥網の義か」としている。事実この地方には井波や江波等の「波」の付く地名が目に付く鳥と関わりがあるのであろうか。谷川健一著『白鳥伝説』には、物部氏の伝承として白鳥伝説をとらえ、古代史における日下部氏・奥州安部氏とも関わらせて、鍛冶・冶金・鉱山技術をも視野に入れた独自の論を展開している。また鳥取部についても、鍛冶・冶金との関連など指摘されている。このように砺波や鬼ケ城など違った視点で、検討すると意外な一面が浮き彫りにされる。また同氏著『青銅の神の足跡』の「日本民俗学は『藁の文化』すなわち稲作文化のみに固執し、金属文化に注意を払わなかった」に強い衝撃をうけたのも事実であり、現在富山県では中世城館調査がこのような、異質な視点から眺めると意外な情報を得るのかもしれない。考古学と違った眼で一石を投じたい。