金子宗右衛門献上櫻と砺波の里山

金子宗右衛門献上櫻と砺波の里山

=エドヒガンと向山(河岸段丘)のコシノヒガン=
 

間馬秀夫

 
 
はじめに
江戸幕府が発布した一国一城令によって加賀藩は高岡城を廃城とした。その後、藩は太田村の十村(他藩では大庄屋に相当する職)金子宗右衛門らに、高岡城の馬場に植栽するための桜を献上するように命じた。宗右衛門らはその作業を誠実に行い、その後、そのことは逸話となって語り継がれてきた。
これについて『太田村史』(平成3年刊)には、高岡桜馬場の桜と宗右衛門の項を設けて、物資調達の特異な事例として取り上げている。その中で佐伯安一氏(元砺波郷土資料館長)は、寛永4年(1627)から6年(1629)のこととするのが妥当であると考察している。また郡奉行 田丸兵庫が4人の十村に命じた廻状の写真と原文も掲載されていて、それには「うは桜いそきほり候て、高岡へもち参あけ可申候」とある。
うは桜とは、本来娘盛りを過ぎても美しく色気のある女性のことを言うが、『牧野新日本植物図鑑』(昭和36年刊)によれば、それを桜の花に例えて、葉よりも先に花が咲くことから葉がないと歯がないことを掛詞としてエドヒガンの別名を姥桜、東彼岸とも言うと説明している。

昭和初期になって、この桜馬場の桜並木から御旅屋太作先生(旧砺波中学教師)がエドヒガンと異なる桜を見つけて、その調査を小泉源一教授(京都大学理学部)に依頼された。その研究によって新種の桜であることが分り、コシノヒガンザクラと命名された。さらに小泉教授も同行され御旅屋先生らは城端町蓑谷蠟山(現南砺市)で数十本のコシノヒガンザクラが自生していることも確認された。

 
 
「金子文書」との出会い
すでに10数年前になるが、尾田武雄氏(砺波市文化財保護審議委員)と共に櫻献上の廻状(古文書)見せてもらう機会に恵まれ、写真も撮らせて貰えた。これが始まりで、さまざまな郷土史研究者に出会い、指導や資料の提供を受け、桜が献上された年号の事やその季節、当時の砺波平野の河川の変遷や街道のこと、幕府と加賀藩の関わり、十村役のことなどを学ぶきっかけとなった。
さて、櫻献上を命じた廻状の読み下し文と現代文は次のようである。
 
読み下し文
 

一筆申遣候、うは桜いそきほり候て、高岡へもち参あけ可申候、御奉行玉井かもん殿御つき候て、御座候間、其心得尤候、山さくら なとのあしきハ御用無之候、木なりよき うは桜 計をほり候て、此くミ中より三拾四五本ほといそき明日中にあけ可申候

殿様今日と山へ御座被成候、二三日之内ニ又高岡ヘ御帰候間、其内ニわたし不申候へハ、御用ニ不立候間、其心得候へく候、為其かさねて申遣候、木ニねん入候て、みなみなとしてみつくろい、うつくしくつゝみ候て、もたせあけさせ可申候、以上、
三月廿六日 田丸兵こ (花押)
 

戸出      又右衛門

光明寺    才二

かいほつ 左衛門

太田      宗右衛門

 
 
現代文
一筆申し遣わします。「うは桜」を急いで掘り、高岡へ持ってきて上げて下さい。御奉行玉井(たまい)掃部(かもん)殿が付き添っておられるので、そう心得て下さい。「山さくら」等良くない桜には、御用ありません。木は姿の良い「うは桜」だけを掘り、この組(4人の十村)の中で34、5本ほど急いで明日中にあげて下さい。
殿様は、今日富山へ出かけておられます。2、3日の内にまた高岡に帰って来られますので、それまでに渡すことができなければ、用をなさぬことになりますので、そのように心得て下さい。今一度重ねて申し付けますが、木は念入りに扱い、みんなで支度して美しく包んで持たせ上げて下さい。以上。
3月26日 田丸兵庫 (花押)

戸出村    (川合)又右衛門

光明寺    才二

かいほつ村 (安藤)左衛門

太田村    (金子)宗右衛門
 
 
高岡への櫻献上について
庄川右岸の里山には数種類の桜が野生に生えていて、特に三条山(標高334m)を中心とする里山には野生のエドヒガンが群生している。弁財天社から眺める山景が京都嵐山に似ているので、礪波嵐山あるいは小嵐山と言われる景勝地として知られており、春には多くの花見客で賑わっている。
庄川右岸のこれらの里山から北方へと尾根が延びていて、この尾根と庄川との間には高低差20m余りの小規模な河岸段丘が形成されている。これを庄川から見ると、小高い尾根が庄川に沿って伸びているように見え、般若地区ではその斜面を向山(字名も同じ。)と言っている。
野生のエドヒガンは、庄川やその支流に面した斜面を好むようで、この尾根においても河川に面する斜面に点在して分布している。また河岸段丘の斜面である向山には杉が植林されているが、植林できない崖地の雑木林や手入れが行き届かない杉林には、大きく成長した野生のエドヒガンが生えている。
その近くに住む金子家に400年の時を超えて桜を献上するように命じた古文書が、今も存在するのである。
 
 
櫻献上の時代や地理的状況
正保4年(1647)の「加越能三箇国絵図」(金沢市立玉川図書館蔵)の越中国図を基に、砺波郷土資料館は「砺波郡近世の村落(1986.3)」を作成しているので、これを参考にして桜が献上された頃の砺波郡の地勢図を試作した。
河川の状況については、今村郁子さん(元砺波郷土資料館職員)が「近世初期の砺波郡及び射水郡の新開について」(砺波散村地域研究所研究紀要第19号)の中で、当時の庄川と小矢部川水系を復元している図2を参考にした。また河道に沿って記載されている村は、現在の村の位置と変わらないものと考え、時代が寛永初期に近い「元和五年利波郡家高ノ新帳」に記録されている村のみを記載することにした。なお、この帳には光明寺組は無く、光明寺村は戸出又右衛門組に含まれている。
ところで「加越能三ケ国御絵図被仰付候覚書」によると、寛永7年に発生した大洪水によって弁才天の西より入川して、この時に庄川という大流川になったとある。櫻献上の作業が寛永6年(1629)までに行なわれていたとすれば、この大洪水直前のことであり、当時、砺波平野を流れていた大河川の主流は千保川のため、その右岸はほとんど陸続きであったものと考えている。
これら4人の十村が住んでいた村は、旧千保川沿いに並んでいて、彼らが管轄していた村々は、旧千保川を挟んで現在の雄神地区と中野地区から下流域に広がり、それらの村の一部は互いに入り組んでいるところもある。
野生のエドヒガンが生える現庄川右岸の山々や向山は、いずれも金子宗右衛門らが管轄していた村の中に位置している。
なお、蝋山がある蓑谷村や林道村、理休村などは、蓑谷組であり、宗右衛門らが管轄していた村ではない。
 
 
桜の性質
この廻状を読むとうは桜いそき(急ぎ)ほり候て、高岡へもち参あけ可申候」に続き「山さくらなとのあしきハ御用無之候、木なりよきうは桜計をほり候て、此くミ中より三拾四五本ほといそき(急ぎ)明日中にあけ可申候とある。
今でも、一般人は山に咲く桜を総称して山桜と言っている。
この古文書には、うは桜あるいは山さくらなどと桜の品種を区別している。このことから分かることは、当時の藩士や十村が、山に咲く桜をエドヒガンとヤマザクラ等とに識別する学識を持っていたということである。
大原隆明氏(県中央植物園主任)によれば、富山県内では野生のヤマザクラ(バラ科サクラ属)が生えているところは、標高が低くて海に近いところであるという。
現在、庄川右岸の里山に野生に生えている桜は、主にエドヒガンやカスミザクラ、キンキマメザクラである。山中ではコシノヒガンザクラも見かけるが、道路縁等に植栽されたものが多くて野生のものと判別することが難しい。
これを古文書の記述に照らすと、うは桜はエドヒガン(コシノヒガンを含む。)を指しており、山さくら等はカスミザクラやキンキマメザクラを指していることになる。
ところで、エドヒガンの最大の特徴は長寿なことである。日本三大桜と言われる三春滝桜(福島県)、神代桜(山梨県)や薄墨桜(岐阜県)は、いずれもエドヒガンである。もう一つの特徴は、ヤマザクラ等と違って、花が先に開いて、葉は花が散ってから出てくることである。
コシノヒガンもまたエドヒガンと同様に花が先に開くが、エドヒガンと異なる特徴は、エドヒガンよりも花弁が大きくて華やかなことである。このため公園や堤防の桜並木として植栽することは、より花見に適した桜と言えるのである。
全国に普及しているコシノヒガンは、越村家(南砺市城端の民家)の桜から苗木を取っていたことが、小原耕三氏(とやまさくら守の会長)の調査でわかった。エドヒガンは種子で繁殖するが、この民家のコシノヒガンをみると親木から伸びた根からも新芽を出して若木が成長するようである。
 
 
献上櫻は蝋山ではなく、庄川右岸の向山周辺
砺波市徳万には、向山を背にした五社神社(俗には岩神の宮)がある。参道を通り抜けた入り口には2本のソメイヨシノが植えられており、その脇にも自然に生えたと思われる一段と高く成長したエドヒガンが1本ある。
また、向山に沿って北へ流れる六ヶ用水(農業用水)は、西から流れてきて向山に突き当たる。そこにも野生のエドヒガンが1本とコシノヒガンが2本生えている。
そのうち老木のコシノヒガンは枯れてしまったが、もう1本は崩れかけた法面に竹林に覆われて生えている。その幹には太い葛の蔓が巻きつき、幹そのものはねじ曲げられた状態でありながら、根元からは数本のが生えている。
このコシノヒガンの花びらは、ほかのコシノヒガン同様にエドヒガンの花びらよりも大きい。また、全国に普及しているコシノヒガンとは異なり、花弁にうねりがある。
この点は平成21年(2009)に発見されたタカオカコシノヒガンの花弁によく似ている。また、御旅屋先生が「富山縣史蹟名称天然紀念物調査報告」(昭和7年刊)で示されたコシノヒガンのスケッチにも似ているように思える。
 
 
その他の性質などはよくわからないので、今後は専門の方に調査して貰いたいと思っている。
宗右衛門は、命じられたとおりにエドヒガンの苗木を吟味して34、5本用意した。
しかし、当時はまだコシノヒガンが発見されていない。
このためエドヒガンを選別するなかにはコシノヒガンも混ざり、高岡に運び込まれたものと考えても不思議なことではない。
馬場に植栽されたであろうコシノヒガンも、数百年の間には城端の民家の桜と同様で、根から新芽を出して、繁殖を繰り返してきたものと考えている。
これまで宗右衛門が桜の苗木を掘り取った砺波の山は、三条山の近くのところであったと考えていた。
しかし、向山で野生のエドヒガンやコシノヒガンを見つけたことで、この作業が行われた砺波の山は、現庄川の右岸に面する向山あるいはその近くの里山で、それも太田村からさほど遠くないところであった可能性が高いと推測している。
 
 
終わりに
もし向山付近のどこかで苗木を採取していたならば、その運搬手段には二通りが考えられる。一つは、綺麗に包んだ苗木を当時は主流であった千保川と庄川との間を走る中筋往来を数頭の馬の背に乗せて陸路を利用して運ぶ方法であり、もう一つは、太田にもあった御囲場付近までは陸路を担いで運び、そこからは高岡へ米や材木等を運搬していたようにその千保川を舟で搬送して城まで運ぶ方法である。
いずれの手段であろうと、この作業を2、3日内に終えることは、運搬距離が約20キロメートルのため十分可能である。
加賀藩3代藩主前田利常によって、金沢には伝統文化などは数多くある。加賀藩の穀倉といわれた砺波郡は、加賀藩領内でも自然豊かなところである。
加賀藩が行った、この桜献上の作業にも利常の文化政策の一端を感じざるを得ない。
砺波の地から選りすぐられた桜が高岡に持ち込まれ、数百年の間を、その時代、その時代の人々に愛されて、今もなお春には人々の心を和ませてくれる。
これら桜の苗木の中にコシノヒガンが混ざっていたならば、そしてその桜が高岡市出身の桜の権威、加茂善治氏の芽接ぎによって高岡古城公園小竹藪に蘇っているならば、加賀藩が廃城にした高岡城跡を存続させるために行った桜の植栽事業は、時を踏まえて花を咲かせている歴史的な偉業と言えよう。
 
(平成28年4月)
 朝倉 桜馬場1.jpg 
    《ありし日の桜馬場》
 
 

三条山(春1).jpg

       《三条山に群生する野生のコシノヒガン》
 

コシノヒガン(越村).jpg

       《南砺市越村家の庭に咲くコシノヒガン》
 
 
 向山(コシノヒガン).jpg
       《砺波市徳万向山斜面に咲くコシノヒガン(中央)、エドヒガン(右)》
 

徳万コシノヒガン.jpg

《野生のコシノヒガン(砺波市徳万向山)2014.4.5撮影》
 
   

寛永図.jpg

《寛永初年砺波郡図:作図 間馬》
  
  


   主な参考文献
編 著 者
書   名
発行年月
石川県図書館協会
『越中史徴』
昭和48年5月
金子文書編纂委員会
『加賀藩初期十村役金子文書』
昭和51年3月
太田村史刊行委員会
『太田村史』
平成3年10月
砺波市史編纂委員会
『砺波市史』
昭和40年3月
高岡市史編纂委員会
『高岡市史 上・中巻』
昭和34年9月、昭和38年3月
高岡市戸出町史編纂委員会
『戸出町史』
昭和47年6月
富山県
『富山県史(通史編・近世)』
昭和58年3月
富山県

『復刻版富山縣史蹟名称天然記念物調査(会)報告
第八輯~第十一輯』

昭和54年9月
富山県

『復刻版富山縣史蹟名称天然記念物調査(会)報告
第十二輯~第十五輯』

昭和54年9月
富山県教育委員会
「富山県歴史の道調査報告書 -北陸街道- 」
昭和55年3月
富山県教育委員会
「富山県歴史の道調査報告書 –五箇山道- 」
昭和56年5月
牧野 富太郎
『牧野新日本植物図鑑』
昭和35年6月
井波自然と親しむ会
「ゆずり葉 第8号」
昭和56年
井波自然と親しむ会
「ゆずり葉 第11号」
昭和62年
砺波市立散村地域研究所
「砺波散村地域研究所研究紀要第19号」
平成14年3月
進野 久五郎
富山の植物―風土と四季を訪ねて(富山文庫Ⅰ)』
昭和48年11月
鳴橋 直弘
『とやま植物物語』
平成12年6月
北日本放送㈱
『伝説とやま』
昭和46年5月
朝倉 吉彦
『開町400年 名勝「高岡櫻馬場」の追憶
平成21年9月