散居村と散村の用語について

 

簡単な砺波散居村と散村の用語の歴史について

尾田武雄

はじめに

 砺波市では日本農業の原風景の散居村を後世に残そうと、景観条例を作成中である。その散居村の用語に対し市民の中に混乱が生じているので。ここでその用語の整理をおこなっておきたい。

まず大正3年に小川琢治が孤立荘宅として、はじめて世に紹介された。それを受けて、民俗学者柳田国男や牧野信之助が散居制集落と表現する。その後昭和5年に村田貞蔵が散村と呼ぶが、多くの学者は散居村落として表現している。戦後に入っても散居村と散村は同時に使用されている。

 だが散村という用語は集村に対して使用され主に地理学者が用いている。昭和27年の「アサヒグラフ」には民俗学者の大間知徳三が散居村を使用している。戦後は地理学関係者が散村とし、一般市民は散居村としている向きがある。たとえば市内にある銘菓「散居」は昭和30年代から作られ、散居村が全国の観光地百選に選ばれているのも市民レベルの運動である。『広辞苑』(第2版・昭和44年)では「散居」「散村」ともに入っている。

インターネットで「散居村」を検索するとウィキペディア フリー百科事典では、『砺波平野が所在する富山県内では「散居村」の用語が定着している。富山県内において散村という用語は、教育現場や地理学界以外ではほとんど目にすることがなく、散村が山村と同音で混同するといった理由などで行政やマスコミでは「散居村」が使われ、一般化している。それぞれの用語の歴史について見てみると、「散村」は明治42年(1909)に京都帝国大学の小川琢治教授が調査したのがはじまりである。「散居村」という用語について確認できる最も古い資料は1952年のアサヒグラフの「散居村-富山県砺波平野にて-」というグラビアページである。この頃すでに「散居村」を使用していたことを示す資料ではあるが、「散居村」という用語が富山県内に広く普及していくのは昭和50年代後半以降である。」とあるのは明らかに誤りである。

散居村と散村についてこだわり始めたのは、昭和58年砺波郷土資料館の発足と同時に砺波地域散村研究所が併設されてからだと思われる。

 

 

研究史

1、     大正初期、小川・牧野両氏の端緒的論争

・大正3年小川琢治が『地理雑誌』第312号で「越中西部の荘宅に就いて」を発表。散居村を「孤立荘宅」と表現する。それを受け民俗学者柳田国男は「散居制村落の研究」(『郷土研究』32号大正4年)水田の中央に点々の孤立農家を分布と称していて、加賀藩の開拓策によるもであろうとその成立を想定している。

・牧野信之助が「旧加賀藩の散居村落について」(『地理雑誌』320号大正4年)散居村の成立は加賀藩の創設によるものと想定される。

・小川琢治は「人文地理により観たる日本の村落」(『地球』54号大正15年)散居村の成立を東大寺墾田に求める

・藤田元春『日本の民家』では越中のカイニュ式住宅とし鎮守の森と評価した。

・石井逸太郎「居住地理学上より見たる越中平野」(『地理学評論』67号昭和5年)フェーンが散居を持続させたものと首肯した

・村田貞蔵が「散村の分布度を知る一方法」(『地理学評論』612号昭和5年)

・牧野信之助「散居制と環濠村落」(『歴史と地理』27123号昭和6年)「ちりじり、ばらばらに」家を建てて良いという加賀藩の政策であるとされる。

・村松繁樹「砺波平野における散居村落に就いて」(『歴史と地理』284号昭和6年)小川・牧野両説を批判する。

・村松繁樹「本邦田園村落に関する一考察」(『地理論叢』第1輯昭和7年)新開地なのでに散居が多い

・村松繁樹「砺波平野の村落景観」(『地理論叢』第2輯昭和8年)

・牧野信之助が「越中新開地散居村落三論」(『土地及び聚落史上の諸問題』昭和13年)加賀藩の法令であるとし、新開地の村落形式であるとしている

・米倉二郎「聚落の歴史地理」(昭和24年)

・石田竜之介「散村とその耕地―となみ覚書」(『一橋論叢』226号昭和24年)

・村松繁樹「砺波平野の散村三論」(『(大阪市大)人文研究』43号昭和28年)

・村松繁樹「散村地域における宅地・耕地と道路」(『人文研究』52号昭和29年)

・大阪市大地理学研究室員「砺波散村の研究ー鷹栖村」(『人文研究』昭和29年)

・渡辺久雄「合併されていく農村―富山県砺波市と鷹栖村の場合」(『関西学院大学社会学』第1号昭和30年)

・岩田慶治「砺波文化の地域的秩序―ひとつの仮説的試み」(『人文研究』79号昭和31年)

・岩田慶治「砺波地方における双分組織の問題」(『人文地理』85号昭和31年)

・西村嘉助「庄川扇状地の発達と人間の住居」(『広島大学文学部紀要』13号昭和33年)

以上が「砺波散村研究譜」『砺波市史』によるものであって、その多くは地理学における砺波散居村の研究史といえるものであろう。その後昭和41年に『砺波市史』が発刊され、砺波散居村の総論的な成果を得ている。砺波散居村が多くの研究成果を得て、その蓄積は昭和584月に開設された砺波散村研究所に引き継がれている。

 

市民の動き

戦後

・アサヒグラフ(昭和27年「カメラ風土記 散居村―富山県砺波地方―」の特集 文は民俗学研究所理事長大間知徳三)大間知は富山県出身の著名な民俗学者である。

・昭和30年ごろに砺波市本町の河合菓子舗の代表銘菓「散居」を売り出す

・中明宗平『鷹栖村史』(昭和37年)砺波郡、散居村落について一つの観察」を発表。藩政時代の御立藪を分析されたすぐれた研究がある。

・新藤正夫「散居集落の高度経済成長への対応と問題点」『高度成長下の都市と農村―富山平野』(昭和45年)

・太田久夫「散村研究文献目録」『郷土の文化』((昭和52年)この目録により、研究史や散居村について多くの示唆と理解ができる。

・週刊読売観光地百選第3位に選ばれる「倶利伽羅峠と砺波・散居村」『週刊読売』(昭和55127日)これは砺波商工会議所岩川毅氏ら中心になり、砺波市小矢部市当局と、砺波市商工会議所、小矢部市商工会、商工関係者が一丸になり運動された賜物である。松本正雄小矢部市長、鍋田砺波市助役、沼田仁義、上銘政雄県議が「砺波地方の観光資源が、いまや日本のものとなった」と述べた。                

・昭和55年初頭から北日本新聞社が連載記事「あしたの森」の「第一部・砺波散居村に住む」を連載する。それが北日本新聞社編『砺波散居村 緑の知恵』(昭和57年)として発刊。大項目は、われら散居家族・カイニュウの発見・屋敷林異変・全国の屋敷林・散居村をどう伝えるか・資料砺波市砂田島全戸面接調査結果がある。

・昭和58年砺波郷土資料館の発足と同時に砺波地域散村研究所が併設される。

・昭和61年に砺波郷土資料館土蔵友の会結成(NPO法人砺波土蔵の会前身)昭和63年に『土蔵―舘明先生砺波郷土資料館退官記念文集』を発刊。散居村・砺波が大好きな市民の生涯学習団体として活動を始める。

・平成9砺波カイニョ倶楽部結成。カイニョ風土の充実発展を願い、カイニョとつき合う、カイニョと親しみ、カイニョで楽しむをモットーに活動をする。

・平成11年田園空間博物館構想がスタートする。

・平成18年『となみ散居村ミュージアム』は、その景観を保全することや、この地方に伝わる伝統文化を全国に発信し、地域の賑わいを創出するために、となみ野田園空間博物館の拠点施設として整備された。

・佐伯安一『近世砺波平野の開発と散村の展開』(平成19年)1章 散村の母胎、近世村の成立2章 散村・屋敷林3章 礪波平野の新田開発4章 庄川の洪水と治水5章 庄川・小矢部川水系の用水6章 礪波平野の十町7章 農業技術と農民生活、佐伯安一の散村研究の集大成

 

 

 

 

 

 

(参考)

インターネットで「散居村」を検索調査 (ウィキペディア フリー百科事典)

 

用語の混在

家々が点在する集落形態を一般的には「散村」という。地理学の分野や社会科の教科書などでは「散村」の用語が使われ、国内で広く浸透している。一方、砺波平野が所在する富山県内では「散居村」の用語が定着している。富山県内において散村という用語は、教育現場や地理学界以外ではほとんど目にすることがなく、散村が山村と同音で混同するといった理由などで行政やマスコミでは「散居村」が使われ、一般化している。それぞれの用語の歴史について見てみると、「散村」は明治42年(1909)に京都帝国大学の小川琢治教授が調査したのがはじまりである。「散居村」という用語について確認できる最も古い資料は1952年のアサヒグラフの「散居村-富山県砺波平野にて-」というグラビアページである。この頃すでに「散居村」を使用していたことを示す資料ではあるが、「散居村」という用語が富山県内に広く普及していくのは昭和50年代後半以降である。

(平成231012日)