砺波の真宗風土

砺波の真宗風土 真宗と石仏 砺波地方は庶民信仰のあかしである石仏の悉皆調査が昭和55年ごろから行われ、その全容が明らかになってきた。砺波市では1357体、南砺市1440体(一部未調査)、小矢部市1788体の報告がある。これらの多くは道端にある石仏であり、富山県内はもちろん全国的に見てもその造立は多いといえる。その特徴は、地蔵の造立が多い。幕末・明治期にかけて爆発的に造立され、石材は主に庄川町金屋から採掘される青色凝灰岩いわゆる金屋石を使用している。石仏の管理者が周知され、地蔵祭が継続され、収穫祭のような雰囲気がある。路傍の石仏でありながら、ほとんどが御堂に入っている。井波町瑞泉寺太子堂に安置される聖徳太子二歳像の模刻石仏が展開している。弥陀一仏の真宗王国の地でありながら石仏の種類が多く、石動山定着修験による珍しい不動明王・飯綱権現・恵比寿・水天・青面金剛など石仏の造立。名号搭が多く、大岩日石寺磨崖仏の模刻石仏も多い。 真宗では「おおよそ造像・起塔は、弥陀の本願にあらざる所行なり」(覚如著『改邪鈔』)、また「他流には『名号より絵像、えぞうより木造』というなり、当流には『木造より絵像、えぞうより名号』というなり」(「蓮如上人御一代記聞書」)との教えがある。真宗地帯の民俗は民族固有の習俗や信仰を破壊する反民俗性が強いとされ、また弥陀一仏の教えは、民間信仰や庶民信仰を否定し拒んできた。だが真宗王国のこの砺波の地に、多くの石仏の造像は不自然で稀なことなのであろうか。 砺波平野は、江戸時代には百万石の加賀藩に属していた。庄川扇状地の散居村が展開し、幕末期には25万石を産する藩の重要な穀倉地であった。幕末期に石仏が多く建てられた背景には、庶民の経済的な豊かさも重要な要素であるが、真宗に根差した信仰心の篤さも排除できない。教団の教えと、庶民の心情が交差するところに、石仏が存在している。  聖徳太子南無仏  真宗が最も輝いて見えるのは、一向一揆の時代の中世である。事実文明13年(1481)の田屋河原の合戦には瑞泉寺を中心とした一向一揆と、福光の石黒氏などの戦いであるが、「闘争記」(『井波誌』)によると「当寺に馳集まる者には、五ケ山勢三百余人、近在百姓二千余人、山田谷又はハンヤ野郷之百姓千五百」がクマデ、棒、鎌を持って参戦したとある。  その後江戸時代の真宗門徒の動きは顕著にうかがい知れないが、明治12年に瑞泉寺の本堂・太子堂の焼失から、その再建に向けた動きは際立っている。明治18年には本堂の再建を成し遂げるが、瑞泉寺のシンボルである太子堂の再建は本堂建設の負債等々でままならなかった。農閑期での太子像や絵伝の巡回が行われるのが、明治20年代からであり、各地で熱狂的に向かいいれられた。巡回を受け入れた家々は、誇りでありステータスであり、砺波の民家が大きくなったのもこれが一因していると思われる。砺波市に「南無阿弥陀佛」と彫られた力士の石碑が63基もあり、草相撲が盛んであったことを物語っている。瑞泉寺太子堂再建を目的にした興行も行われ、若い青年層への深く浸透していた。巡回と期を同じくして、道端には太子堂が建造され、太子南無仏が安置されるようになるが、それは若衆報恩講やお講で学んだ青年層によるものであり、現在砺波地方とその周辺に245体を確認している。 両堂再建  東本願寺は、天明8年(1788)、文政6年(1823)、安政5年(1858)、それに元治元年(1864)蛤御門の変による大火で両堂が焼失し、百年未満に四度も両堂を失っているのである。明治12年に再建の発示が出され、全国に御消息が発せられ、いち早く毛綱が納められた。女性の黒髪で編んだ毛綱は、全国から53筋寄付され、富山県内からは最も多い16筋も寄進されている。(「再建の軌跡」『同朋新聞』2002年1月号)また明治15年には上刀利白山社から、欅の巨木が再建のため献木されている。再建工事の人足小屋として詰所が整えられ、明治22年(1889)の詰所一覧(河村能夫著『京都の門前町と地域自立』)によると、46軒ありその内富山県内の門徒による詰所は五ヶ所が見え、精力的に参加したことがわかる。砺波詰所の明治の妙好人砺波庄太郎は諸国詰所のリーダーである触頭となっている。    ところで私は、県内の石仏研究を主にして庶民信仰に関心を持っているが、石仏は主に幕末から明治期に造立されることが多い。また造像したのが村の若連中つまり青年達のものが多く、石仏の銘文に「村若連中建之」とあることでわかる。地蔵祭りも昔は子供たちが中心であったが、最近は少子化などで細々と行なわれているが、明治期は違っていたのである。地域の若者によって建てられた石仏は、地域で長く大事に維持管理され、若者や子供たちによって祭りもされてきた。若衆報恩講などもこの時期に盛り上がったものである。まさに明治時代は若い庶民がいきいきとしていたのである。獅子舞や草相撲、ばんもち、盆踊りなどの活力となっていて、そのエネルギーが砺波の真宗風土を支えている。