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大震災の後に、「美術」を思う

 2011.3.11の大震災の前と後とでは、被災された方々は言うに及ばず、遠く離れて被害のなかった土地の方々も、心の持ちようが一変してしまったであろう。久しぶりの原稿はテーマから遥かに逸れた内容だが、3.11を自分なりに受け止めない限りは、とても本題に戻れそうもない。そう思い、綴った拙い文章である。

 

   2011年3月11日(金)、午後2時46分。振幅の長い、ゆったりとした揺れを富山で感じた。ネットで地震情報を見ると、東北の太平洋側で震度6強と伝えている。大変なことになったと思ったが、所用があり1時間ほど、あらゆる情報ツールから遠ざかった。戻ってテレビを見ると、現実とはにわかに信じがたい映像が流れていた。海から押し寄せた濁流が家々を飲み込み、押し流す。巨大な船舶が津波に翻弄され流れてゆく。心が凍てつき、ただ唖然と見ているだけだ。
大震災から1ヶ月経った4月10日(日)、ミネラルウォーターと和菓子を手土産にいわきの美術館の知り合いを訪ねた。お見舞いのためだけでなく、伝えたいことがあったのだ。
1新舞子浜の道路.JPG大震災直後は、これだけの災害であり、人々の心に重石となるに違いない。美術や美術館は二の次どころではない、と思った。来館者の激減は避けようもない、と。しかし、負の予想は覆った。減少傾向には違いないが、「激減」とはならなかった。お客さんの表情を見ると、一様にホッとされているようだった。中には「館が開いていて、良かったよ。開くべきところが、ちゃんと開いていなければ」と声をかけても下さった。お客さんの表情や言葉に、勇気づけられた。このような事態になろうとも、否、こうした事態であるからこそ、美術が、美術館がなすべきことはあるのだと思った。このことを是非とも伝えたいと思い立ち、自家用車でいわきに向かったのである。
美術館を外から見たところ、歩道の敷石ブロックが大きく崩れているものの、本体にはダメージがないように見受けられた。知人を訪ね、状況を聞き、前述の私見を伝えた。思いは同じであったようで、「企画展は無理にしても、常設展を開き、美術館活動を再開したい。いろいろな市民感情があるだろうし、『今、美術?』という否定的な意見も多々あるだろうが、早く日常の姿に戻すことを第一に検討している」とのことであった。筆者も大きく頷いたのは言うまでもない。2新舞子浜.JPG
美術館を出て、新舞子浜に向かった。太平洋を見ておかなければ、と思ったのである。浜と平行に走る道路に出て驚いた。路面を砂が覆っているのだ。車のタイヤが通ったところが轍となって、そこだけアスファルトが露出している。津波が運んだ大量の砂なのだ。
新舞子浜は大きく開けた浜であった。風が強く波は荒れていたが、この海が牙をむいて襲いかかり、多くの命を奪ったとは、とても信じがたい。思わず手を合わせた。砂浜が何キロにも及び、その遙か先に太平洋に向かって伸びる岬。長く続く浜辺と大海原、そして岬が織りなす風景は雄大で美しい。自ずと視線は遠くへ、遠くへと誘われる。視界から悲劇の爪痕が消えてゆく。が、足下には、津波が押しつぶした家屋の木材が打ち上げられている。白い貝殻が、波打ち際から遙か奥の松林までの至る所に無数に散乱している。確かに1ヶ月前、高さ数メートルの津波がこの浜を襲ったのだ。
3折戸漁港.JPG浜と平行に走る道路を北に車を走らせる。路面の亀裂、路肩の崩落、一階部分が津波に襲われた民家が散在する。数キロ走ったところで、行き止まり。切り返してもと来た道を戻る。海沿いの道は至る所で寸断されている。行き止まりの標識など何もない。
翌朝、まばゆいほどの朝陽で目覚めた。午後から天気が崩れるとの予報である。午前は小名浜の方面、南の海岸を巡って帰路に着くことにした。小名浜に通じる幹線道路は順調に車が流れている。降り注ぐ陽差しに幻惑され、南国をドライブしているような錯覚に陥る。左折し幹線道路から離れ、低い山間を縫うように海辺に向かう。
4江名漁港.JPG トンネルを抜けて出たところが折戸という小さな漁港であった。前方から給水車が来たので、邪魔にならないように港そばの空き地に車を停める。大震災から1ヶ月経っても、この小さな漁村は断水状態なのだ。厳しい現実を突きつけられる。道沿いに車を1キロほど北に走らせると、江名というやはり小さな漁港に出た。岬が海に突き出た入江の港で、風光明媚な景色である。柔らかな朝陽と、潮の香を運ぶ穏やかな風が身を包む。一方、港の一角には瓦礫が山のように積まれ、岸壁沿いの一画を占める大きな水産物加工場は津波の襲来で壁がはぎ取られ無残な姿を見せている。5.江名漁港:瓦礫の山.JPG
 道路の両脇には瓦礫が積み上げられ、道幅が随分と狭い。海側は所々に空地があるように見える。屋根がないのだ。津波で家屋が全壊したのだろう。山側の家々は一階部分が被害を受けている。一瞬「アレ?」と思った。合点のゆかない光景が視界に飛び込んできたのだ。川をまたいで家が建っている。まるで家の形をした橋である。津波で一軒丸ごと流され、川の両端のコンクリートの上に置き去りにされてしまったのだ。惨い光景である。ここも海沿いの道は通行止めになっている。ハンドルを左に切って、富山へと向かうことにした。
6江名漁港:岸壁沿いの水産物加工場.JPG富山に着いたのは、午後5時頃であった。順調な帰路であった。家でくつろいでいると、地震速報がテロップで流れた。福島県浜通り震度6弱。翌日も震度6弱の揺れが再びいわきを襲った。以下の文章は、4月12日(火)の夕刻に届いた、いわきの知人からのメールである。「その後の余震の状況はご存知かと思いますが、昨夜の余震は、まさに本震がまた来たか、と思うような揺れ方で、さらに今日の午後にも同様の余震が続き、ほぼ復旧していたライフラインも途絶えてしまいました。市内の多くの世帯が再び断水となり、お持ちいただいたペットボトルは館員全員で分け、とても助かっております。まだ小さな子どもを抱える職員もおり、昨夜から今日の余震はまた日常生活に大きな影響を与えています。」
もし、浜や漁村で大きな地震に見舞われていたならば、一体どうなったのか。津波警報が発せられ、一帯は騒然となったことだろう。パニックになり、よそ者は足手まといで、住民の方々に多大なご迷惑をかけたに違いない。1ヶ月が経っても、油断できない状況なのである。見通しの甘い、無責任かつ無謀ないわき行きとの誹りは免れ得ない。
しかし、現実をまざまざと目にしたからこそ思い至ったこともある。知人の一言が実は大変に重い言葉である、と。感情論や精神論が通用する世界ではないのだ。「日常の姿に戻すこと」――短い言葉だが、その結論に至るまで測り知れない葛藤があったに違いない。軽い気持ちで発せられた思いつきなどではない。
美術館力が試されているのは被災地に限ったことではないだろう。日本全体で試されているのだと思う。では、富山でなすべきことは何だろうか。軽々に結論を急ぐ必要はないが、問い続けながら美術と向き合い、何かを見出し、実践しなければいけないと思っている。
杉野秀樹・砺波市)

 

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