庄川水力電気専用鉄道の成立と変遷 --庄川流木争議の一断面 --

草 卓人(「鉄道の記憶」桂書房刊所収)

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はじめに
 平成十四年(二○○二)三月、庄川町小牧の庄川本流に位置する小牧ダムが、国の有形文化財と して登録された。
 小牧ダムと言えば、すぐに思い出されるのは「庄川流木争議」であろう。大正十五年(一九二六) から昭和八年(一九三三)の和解まで、庄川での「流木権」を主張する飛州木材㈱側と、同川に水力発電用の堰堤を建設しようとした庄川水力電気㈱側 との激しい抗争が全国的に知られる事となり、その後の電源立地の在り方にも大きな影響を与えた事件でもあった。

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 庄川流木争議の事件内容自体については、既に多くの先行研究が存在しているが、特に争議初期の「加越線ポイント事件」などの抗争の舞台となり、完成後は木材の河川流送代替施設としても利用された庄川水力電気㈱の工事専用軌道についてはあ まり触れられていないようである。
 本稿では庄川電源開発の裏面史とも言うべき専用軌道の成立と変遷を通じて、流木争議との関連 や、小牧ダム完成後に誕生した新名所「庄川峡」観光開発との関わりについても検討してゆきたい。


1,庄川の発電計画
 岐阜県大野郡荘川村を源流として、砺波平野を潤し、日本海に注ぐ延長一三二キロの庄川は、冬の降雪や梅雨、台風などの降水による水量が豊富であり、藩政期よりこの流水を利用した上流地域からの運材が行われていた。
 明治期に入り、山林での伐木が自由になると、庄川の山間部からの出口にあたる青島村(現・庄川町=砺波市)は、飛騨・五箇山方面からの木材運送の中継地として急速に発達した。大正四年(一九一五)七月には、中越鉄道(現・JR城端線)福 野駅とを結ぶ砺波軽便鉄道(のちの加越鉄道)が開通して、青島は庄川流域の木材集散地としての地位を不動のものとした。

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 だがその一方で、豊富な水量を誇る庄川は、水力発電の適地としても注目され、明治後半から既にいくつかの発電計画が立案されていた。
 第一次世界大戦(一九一四—一八)に伴う好景気により、産業界が未曾有の活況に入った大正五年五月、富山県出身の実業家浅野総一郎は、かねてより着眼していた 庄川流域での発電事業計画を実行に移すべく、同川の水利利用を出願した。(注1) 浅野の当初計画によると、庄川流域の藤橋(七一四○kW)、大橋(二万一四六一kW)、合計出力で一○万〇八四八kWに及ぶ発電所を建設して、その発生電力を庄川の河口港である伏木港付近に建設予定の変電所へ送電し、同港周辺に形成されつつあった伏木港岸工業地帯のセメント・電気製鉄他の製造工場への送電が目論まれていた。またこの計画は同時に、浅野が別に構想していた高岡—伏木間の運河=「高伏運河」開削計画が実現した場合、運河両岸へ立地される新設工 場の電力需要に応えるものでもあり、主に地元での消費が見込まれていた(史料1参照)。
 同八年一月に水利使用の認可を得た浅野は、その事業主体として資本金一○○○万円の庄川水力電気株式会社(以下「庄川水電」とする)を同年十月に設立させた。当初庄川水電の総株数二〇万株の内、過半数の一四万珠は浅野同族株式会社の持株 であり、その水力部が経営に当たる浅野財閥のグループ企業であった。(注2)


2,専用鉄道の建設
 庄川水電はまず、藤橋(現・小牧ダムの下流側)地点へのダム式発電所建設を決定した。続いてその資材運搬用として専用鉄道の敷設を計画し、同年十二月九日附で「専用鉄道敷設免許申請」(注3)を政府に提出した。
 弊社富山県東礪波郡ヲ貫流セル庄川筋ニ於テ庄川ノ流水ヲ利用シ同郡東山見村藤橋他六箇所ニ水力発電所及堰堤築造ノ新設工事ヲ計画シ既ニ認可ノ箇所ヨリ至急工事着手致度就テハ該工事ニ要スル諸材料砂利、砂、「セメント」、工事用諸機械、発 電機、ソノ他附属品等運搬ノ為メ同県同郡青島村加越鉄道(元礪波線)終端駅青島町停車場構内ヨリ庄川左岸ニ沿ヒ青島村及東山見村ヲ経由シ藤橋ニ至ル延長弐哩弐拾参「チェーン」、砂利積込線拾弐「チェーン」、工事場引込線弐拾「チェーン」ノ工事用専用鉄道敷設致度候間特別ノ御詮議ヲ 以テ御許可相成度別紙実測図面及加越鉄道株式会社接続承諾書相添此段申請候也
 この申請の内容は、加越鉄道終点の青島町駅から、発電所建設予定地点である藤橋までの専用鉄道(約三・六六キロ)及び、工事用の砂利採集線などを建設しようとするものであった。
 大正九年(一九二〇)十月十三日附で敷設免許を下付 (注4 )された庄川水電は、堰堤地点の調査結果を待って本格的な工事に着手する予定であった。しかし調査の結果、藤橋・大橋の両地点はダム建設に不適であり、両地点の中間に当たる小牧が技術・経済上有利との結論を得て当初の計画を変更し、十一年七月に工事認可を取得した(注 5)(当初最大出力四万四八○○kW、のち七万二○○○kWに変更)。
 このため、同年四月十日に着手されていた専用鉄道の敷設工事は、工事半ばで「工事場引込線ヲ新堰堤位置(小牧)ニ到ル線路ニ変更」することを余儀なくされ、十二月二十七日附で「工事方法変更認可申請」を提出し、翌十二年六月二十一日附で 認可を得た。(注6)
 ところが大戦後の不況や、同年九月の関東大震災によって会社の資金調達が不能となり、発電所工事は中止の止む無きに至った。専用鉄道の工事も大正十三年(一九二四)九月の時点では、まだ青島町駅より一哩(約一・六キロ)地点までの線路し か敷かれておらず、残る区間も用地買収の出来ない部分が三割も残っていた。(注7)
 このため、庄川水電との大口需給契約を交わしていた日本電力㈱(当時)は事業計画の遂行上、小牧発電所の工事を引き継ぐことになった。大正十四年一月、浅野側は庄川水電株の相当数を日本電力㈱に譲渡して、庄川水電は日本電力㈱の系列下に 入った。
 庄川水電を傘下に収めた日本電力㈱は地元への電力供給を主目的とした当初の送電計画を変更し て、同社の送電系統の一部へ組み入れると同時に設計自体にも改良を加え、最大出力を七万二○○○kWに変更して、同年四月に工事を再開した。 (注8)
 同年十二月、青島町—小牧作業場(以下「小牧」とする)間二哩七七鎖(約四・七四キロ)の専用鉄道及び、庄川下流への砂利採集線が竣工した。(注9)

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 翌十五年一月二十九日附で認可(注10)が下りて、待望の資材輸送が開始された。ある鉄道マニア誌(注11)には同年一月十五日開業と記載さ れているが、この日付はあくまで「青島小牧間専用鉄道運輸開始認可申請書」(注12) (一九二五年十二月三十一日附)に記載された運輸開始希望日である。
 青島町 —小牧間の中間駅としては、青島町より二六鎖(約○・五キロ)の地点に青島作業場(ヤード)が設置された。青島作業場は運輸事務所や機関庫を備えた専用鉄道の中枢であると同時に、セメント等の資材倉庫が設けられた工事資材の一大集散地であった。また同駅は、庄川下流方面へ向かう砂利採集線(先述)の分岐点でもあった(図1参照)。
 なお、開通当初は全線が非電化で、蒸気機関車三両(内一両は修理中)と無蓋貨車五両で運行を開始したが、庄川水電は輸送力増強のため、貨車を始めとした車両の増備を進める一方で青島町—小牧間の電化工事(六○○V)を計画し、同年五月四日附で認可を得た。(注13)工事は六月に完了し、同月二十四日附の認可を待っ て、この区間には新たに電気機関車四両が投入され、蒸気機関車は主に非電化の砂利採集線で用いられることになった。資材輸送のピークと なった昭和三年(一九二八)には電気・蒸気機関車が各四両、貨車は一八五両の大所帯となり、文字通り大車輪で資材輸送に当たっていた。

 

3.加越線ポイント事件と柳瀬村延長線の顛末
 小牧ダムの着工以来、工事に使用されるセメントは、伏木港で船から貨車に積換えられて氷見・ 城端線経由で同線福野駅に達し、そこから加越鉄道で青島町駅まで輸送の上、庄川水電の専用鉄道にバトンタッチされていた。この輸送によって加越鉄 道に入る運賃は、当時の金額で一日当り九○円、一ケ月で二七○○円にも達し、セメント輸送は同社第一のドル箱となっていた。
 大正十五年(一九二六)十一月、加越鉄道は庄川水電が毎月二十日払いの契約となっている専用 線への貨車出入料の支払が数日遅れたことを口実として、同月二十三日附で庄川水電に対して貨車出入契約の解除を通告すると同時に、青島駅構内から 分岐していた専用線のポイント(写真1参照)を施錠して、貨車の直通運転を不可能にした。(注14)これが「加越線ポイント事件」の始まりであった。
 このため庄川水電は、折角青島町まで運んだセメントや資材を一旦貨車から降ろして青島ヤードまで車馬輸送の上、再び専用鉄道の貨車に積換える手間が生じ、資材輸送は労力・金銭的に大きな打撃を受けた。
 加越鉄道にとって本来ドル箱であるはずの発電資材輸送を妨害する行動に出た最大の理由は、かねてから主導権争いが続いていた同社の経営権を、同年八月に掌握した平野増吉が代表を務める飛州木材㈱が、それまで庄川の水流を利用して青島の貯 木場まで大規模に行っていた木材流送の「流木権」が、ダム建設により侵害されるとして、発電事業者である庄川水電と対立関係(「庄川流木 争議」…後述)にあったためである。
 また、当時の新聞には、専用線及びその用地(一部)の使用権を持つ加越鉄道(所有権は飛州木材㈱)が、五○万円(当時の金額)で庄川水電へ売却を提示するなど、「加越の新重役連が智慧を傾けた庄川電力より何かの材料の元に莫大なる金圓を 領得し同会社の負債を償還し発達を計らんとせるにあり」(注15)と報じられている。
 庄川水電はこの問題を鉄道省(当時)にも提訴した。鉄道省は両社の調停を試みたが、加越鉄道側は本来輸送目的としていた木材輸送を阻むダム工事に便宜を図ることは出来ないとして、これに応じようとはしなかった。(注16 )
 これに対抗するため庄川水電は、青島ヤードから城端線出町(現・砺波)駅までの専用鉄道延長を計画したが、飛州木材㈱は要所に当たる土地を事前に買収し、計画を妨害した。続いて庄川水電は第二の対抗策として当時ダム本体工事の本格化に伴 い、コンクリート打設用骨材として使用する川砂利需要の増大に応えるため、建設を検討していた庄川下流の柳瀬村(現・砺波市柳瀬)への砂利採集線延長計画に着目し、この路線を資材輸送の予備的経路としての要素を加味して建設することを決定して、昭和二年(一九二七)八月二十九日附 で青島ヤード—柳瀬村間他総延長五哩一五鎖(約八・三キロ)の「専用鉄道敷設免許申請」(注17)を提出した。
 その申請は、当時青島ヤードから太田村(現・砺波市太田)までは「弊社発電工事土工用トシテ現ニ使用スル既設ノ軌条ヲ改善ノ上之ニ充当シ」、そこから柳瀬村までは新設軌道として建設の上、資材輸送については「国有鉄道中越線出町駅ヨリ中 途車馬輸送ノ便ヲ籍リ出町太田間ノ県道ヲ利用シ太田村ニテ本申請ノ鉄道延長線ニ其ノ連絡」を計ろうとする内容であった。
 一見手間のかかる 輸送経路に見えるが、延長線の路線用地が飛州木材側の買収の手が及ばない庄川の堤防及び河川敷であった事や、陸上輸送を封鎖された場合、伏木港よ り庄川の舟運を利用できる利点もあった。

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 この申請は同年十二月二十七日附で認可され、翌三年七月には柳瀬村(開発第二号砂利積込場)まで の全線が竣功して、九月五日より正式に運輸が開始された。(注18)途中には青島ヤード側から順に、第一号〜第四号及び 開発第一号の各砂利積込場が停車場として設置され、全線が蒸気機関車による運行(非電化)であった(写真2参照)。
 ところが延長線開業四ケ月前の同年五月、金沢市内で両社重役が会見の結果、相互の妥協の専用線分岐ポイントの施錠が解除され(注19)、一年半に及んだポイント事件は解決していた。なお妥協の内容は、①加越鉄道一部重役の持株を庄川水電 に買い取らせ、その内四五○○株(二二万五○○○円)を加越鉄道に無償交付させた上で、これを同社の減資(資本金一○五万円→八二万五 ○○○円)に充当し、同社の繰越欠損金と相殺する。②加越鉄道へ庄川水電側より役員を入れる。との二点であった。(注20)
 このため、折角開業した柳瀬村までの延長線は「其ノ後私設鉄道加越線トノ貨車連絡良好ト相成 リ此等器械類ノ輸送ニ付テハ今日迄当該線路ノ必要ヲ生セラリシ義ニテ昭和三年九月五日運輸開始以来ノ経過ハ全線ヲ通シテ砂利玉石ノミノ運以外には 利用されず、その輸送能力は十分に生かされなかった。
 やがて、ダム堤体のコンクリート打設がピークを過ぎ、砂利の需要が減少すると共に路線存続の意義は次第に薄れてゆき、昭和四年には太田村—柳瀬村の区間が、七年四月には残る青島ヤード—太田村までの区間も全廃された。


4.庄川流木問題の最中へ
 小牧ダムの建設は、電力の発生や河川水量の調節が可能になる等の利点がある一方で、従来から庄川の水流を利用して運搬された木材の売買や、その製材・加工などを生活の糧としていた人々にとって、木材の運搬手段である庄川をせき止めるダム の建設は、大きな衝撃であった。

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 県当局はこうした事情を考慮して、庄川水電の工事を許可するにあたり、木材流送に代わる運材施設の設置等をその付帯条件とした。その後大正十五年(一九二六)三月三十日付でダムの着工は正式に許可された。
 同年五月、庄川の水流を利用して大規模な運材を行っていた飛州木材㈱は、ダム建設により「流木権」が侵害 されるとして、当時の富山県知事を相手取り「小牧堰堤工事実施設計認可取消請求」の行政訴訟を、次いで十月には「堰堤工事禁止の仮処分」を申請 し、飛州木材と庄川水電の対立は全面戦争の形となった。これが後に「庄川流木争議」と呼ばれる抗争の始まりであった。
 当時飛州木材㈱の代表であった平野増吉らは、庄川水電に対して訴訟による法廷闘争を行う一方 で、自己が支配権を掌握した加越鉄道と庄川水電専用鉄道との連絡ポイントを閉鎖(前述)する等の実力阻止や、庄川流域の木材関連業者や農・漁業者 を始めとする地域住民や自治体を反対運動に巻き込む手段をとり、さらに政府へ木材流送の代替施設認可阻止の運動も行なった。

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 電力側も、工事を着実に進行して既成事実を積み上げてゆく一方で、反対運動粉砕のためにあらゆる手段を用い、両社の抗争は泥沼化の様相を呈した。
 小牧ダムの湛水開始を目前に控えた昭和五年(一九三○)に両社の争いは訴訟合戦の泥仕合に発展し、四月には飛州木材側の申し立てにより、一時工事禁止の仮処分(「流木権確認並びに妨害排除請求」の民事訴訟)まで執行された。
 しかし同年七月に仮処分は取り消され、九月には仮処分取消への控訴及び、行政裁判上の仮処分申請も却下されて飛州木材側は敗訴となり、九月二十一日にはダムの湛水が開始され、十一月十二日には発電も開始された。
 小牧ダムの湛水開始に続いて上流の祖山ダムでも湛水・発電が開始され、庄川の流れは二ケ所で完全に堰き止められた。以後両ダム間の木材輸送は、水利使用許可に基づいて電力会社が設置した運材施設を利用せざるを得ない形となった。

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 庄川水電が昭和電力(上流に祖山ダムを建設)と共に建設した運材設備は、祖山ダム上流の見座貯木場(平村)まで流送された木材 を祖山ダムまで船で曳航(又は積載)して、ダム下流側へコンベアーで降ろし(写真3参照)、そこから下流側の十八谷まで軌道運搬 の後、再び小牧ダムまで湛水地域を船で運搬し(写真4参照)、堰堤に設置されたコンベアー(写真5参照)又は軌道によって専用鉄 道の貨車に積換え(写真6参照)、さらに小牧発電所下流側の「川入場」(土入場)まで貨車輸送(写真7参照)の上、庄川に投入 (写真8参照)するというもので、一流材期間(十月中旬ー二月末)中に三〇万石(約七〇万本)の輸送能力を有する「水運、陸運を 併用した画期的施設」(注22)と称していたが、実際の運用上は複雑で手間のかかる施設であった。そこから先は従来通り二万七千石用水経由で青島の貯木場ま で流送する形となっていた。

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 せめて小牧から青島の貯木場まで直接貨車輸送すれば木材積み替えの手間も若干軽減されるのに、再び川入れ して二万七千石用水を経由するルートを選定したのは、当時の用水組合が木材流送による用水使用料を大きな収入源(当時の金額で年間三〜四〇〇〇 円)としており (注23 )、専用鉄道で木材を青島まで直送すると用水側の収入が無くなるとして、この区間の貨車輸送に反対していたためである。
 これにより、本来は工事終了と共に撤去される運命にあった小牧までの専用鉄道は、発電工事資材輸送終了後も「木材流送代替施設」の一部として存続される事になった。訴訟に敗れた飛州木材は、次の手段としてこの運材施設の不備を立証する作戦に出た。同社はそれまで年間三〜四万石、多くとも四〜五万石で あった流材を、昭和五年度だけで従来の約七倍にあたる二八万石も搬出する計画を立てた。これは運材施設に輸送能力を上回る大量の木材を殺 到させて、運材が不可能である証拠にするための手段であった。
 昭和五年度(同年十月末ー翌年二月末)の第一回流木期間の終了後、電力側は一一万一四五八石 (二六万四○五九本)を期間中に輸送し、その後流下してきた二万三七四八石(五万三八○四本)を含めた一三万五二○六石(三一万七八六三本)を滞り無く運搬したと発表した(注24)。これに対して飛州木材側は流材総量二八万石の内、八万石の木材 が放置され、七万石が不明になったと主張(注25)、電力側を告訴した。
 昭和六年度の第二回目の流木では、飛州木材側は二二万五〇〇〇石の流材中、青島貯木場に到着 したのは九万三○○○石と主張した。これに対し電力側は総木材積七万六○○○石と発表(注26)。両社の主張は平行線のままであった。
 昭和七年(一九三二)十二月二十日、行政訴訟は飛州木材側の敗訴となり、県当局も従来流木現場での立会監督を廃止して、運材については電力側と流木業者との当事者間で協議させる方針とした。
 しかし県当局が昭和七年度の流木許可を出したにも関わらず、両当事者間の協議不調から運材は行なわれず、製材・木工業者ら庄川下流の沿岸住民は木材の輸送遅滞によって失業状態となり、地域の死活問題となった。このため翌八年一月十日に は、青島周辺の住民約三○○名余りが県庁へ事態の収拾を求める陳情を行う(注27)事態に発展した。
 一月十二日、電力側と飛州木材側は事前協議を試みたが交渉は決裂し、双方は多数の人夫を繰り出して、一触即発の事態となった。続いて双方は二十四・二十五の両日に協議を試みようとしたが、二十五日の会合に飛州木材側は出席しなかった。こ の間、電力側運材起点の見座には約二○万石の流材が堆積し(注28)、出水時には流材が堰堤や用水取入口等の河川工作物を破壊する危険も 生じてきた。
 このため電力側は、十九日から行なっていた飛州木材以外の業者の運材開始に続き、二十五日午後より独断で飛州側の運材も開始した(注29)。電力側は少しでも多くの木材を輸送するため、小牧発電所付近での川入れを省略し、小牧から木材を 貨車積みのまま青島町駅までビストン輸送を行なった。そのため流木時の用水使用料を収入源としていた二万七千石用水への木材流入がストップし、用水組合側が電力側に抗議を申し入れる一幕もあった(注30)。
 一月二十八日午後二時、電力側が小牧ダム上流側に堆積した飛州側木材の運材開始によって、両者の対立は最悪の事態となった。
 翌二十九日午前八時、運材作業の実力阻止を図るため小牧ダム方面へ向かった飛州側約四○○人の人夫と、これを食い止めようとした電力側約二○○人の人夫が発電所付近で乱闘となった。その結果双方で二十数名の負傷者を出す流血の事態となり、電力側の施設や機関車も破壊されて、専用鉄道の運行は一時不可能となった(注31)。
 遂に県当局は、同日午後一時、電力側へ運材作業の中止を、飛州側へは流材作業の中止をそれぞれ命令した。
 二月一日、県知事は双方の重役を県庁に招致し、同月五日より十日間の無条件運材と、その間の運材方法協議の続行を示達した (注32 )。これは河川保安・同工作物への危険除去と、下流地域の木材関連労働者の失業防止のための措置でもあった。
 二月五日より開始された強制運材は、一日一万本の成績を挙げ、さらに二十四日まで延長した結 果、支流の一部を除いて流木は一掃され(注33)、河川工作物への危険や、木材関連労働者の雇用不安は解消された。
 三月七日、仮処分事件の本訴であった流木権確認妨害排除事件の判決が下った。飛州側の主張 た流木権の存在は確認されたものの、ダム建設で失われた流木権の代償として求めた八 ○○万円の損害賠償(森林鉄道敷設費に相当)は、わずか二○万円しか認められず、双方は直ちに上告した。
 しかし、この頃既に昭和四年(一九二九)の大干ばつを契機として、庄川下流地域の農民たちの間には、ダムによる水量調節を待望する気運が生まれ始め、飛州木材の地元役員たちも、電力側との妥協による地元の繁栄を求めて同社と訣別してい た。さらに庄川上流の岐阜県側には、越美南線(現・長良川鉄道)美濃白鳥駅から鳩ケ谷まで三二キロの通称「百万円道路」が電力会社の負担 によって整備される事になり、木材の大半が同県側へ陸送出来る体制が整ったため(注34)、この地域の住民が訴訟から手を引くなど飛州側の切り崩 しが行なわれ、また飛州木材自体も闘争への多額の出費により負債が膨らんで経営は悪化し(注35)、争議の形勢は次第に電力側へ有利に傾いていった。
 昭和八年八月、内務省土木部長の斡旋によって両社の間に和解が成立し、双方は全ての訴訟を取り下げ(注36)、ここに原始産業対近代産業の争いと言われた庄川流木争議は決着した。

 

5.ダム完成後の専用鉄道
 幾多の困難を乗り越えて完成した小牧ダムは昭和五年(一九三○)九月に湛水が開始され、十一 月十二日には下流の発電所も運転を開始して、小牧発電所の工事は完工した。
 ここで専用鉄道本来の使命は終了した事になるが、その一方で同線は木材流送振替施設の一部と位置づけられている以上、その撤去は不可能であった。ただ、木材輸送の最盛期である冬季のみの運行のために、線路施設や車両の維持を続けるのは、 不要車両の売却等によって規模の縮小を行っていたとは言え、不経済であった。
 しかし当時「東洋一」と謳われた小牧ダムによって出現した一大湖水は「庄川峡」という景勝地を出現させ、新たな観光地となりつつあった。
 このため庄川水電は、専用鉄道の青島町—小牧間を庄川峡への観光鉄道として活用する事を決定した。
 昭和六年二月末の運材作業終了後、同社は小牧ダムまでの鉄道運行と、ダム上流の大牧温泉及び祖山方面への交通運輸を目的として庄川運輸事務所を設置し、同年四月三日より青島町—小牧間に「(貨車を)展望式に改造した」客車列車の運行(無認可営業)と、小牧ダムー大牧温泉ー祖山間の客船運航を開始した(注 37)。

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 青島町から小牧までの鉄道区間には、途中乗降客の便を図るため、鳥越鉱泉及び発電所付近に旅客用の停留場 が設置され、ダムへの立入りも入場料二銭の支払で可能になった。昭和八年(一九三三)当時の時刻表によると、一日上下一○本の旅客列車が運行され ている(史料2参照)。
 庄川水電は加越鉄道と協力して宣伝パンフレットを発行(史料3参照)するなど積極的な観光誘致に努めたため、休日は観光客の乗車で大いに賑わったが、休日の利用客のみでは鉄道営業の採算ベースには乗らなかった。さらに専用線存続の主目的 であった木材運搬も、流木争議中の乱伐や、電力会社が岐阜県側に建設した「百万円道路」(先述)によって、庄川上流地域の木材が同県方面 へ搬出されるようになり、富山県側の小牧方面への運材が著しく減少したため、鉄道存続の意義は次第に失われていった。
 日中戦争勃発により、戦時色が次第に濃くなってきた翌年の昭和十三年(一九三八)に専用鉄道の旅客営業は廃止され、バス運行に切り替えられた(注38)。次いで庄川水電は翌十四年十月八日附で「専用鉄道廃止届」 (注39)を提出し、青島町から二万七千石用水取入口(庄川水電による木材輸送の終端付近)までの線路を撤去した。
 この時残された小牧までの区間は、その後も木材流送の代替施設として、上流のコンベアー等と共に残置されていたが、活躍の機会はほとんど無かった。
 また、庄川水電自体も昭和十六年(一九四一)に国策会社「日本発送電」に統合され、その歴史に終止符を打った。太平洋戦争も中盤に入った昭和十八年(一九四三)八月、小牧発電所を視察した坂県知事は「こゝ数年間何等使用されず、風雨に曝 されてゐた」 (注40) 小牧・祖山両発電所のコンべアー設備を県内港湾の石炭荷揚げに転用する計画を立て、今後流材があった場合は県が適当な処理を 講ずることを条件にこれらの設備を日本発送電から譲り受けることが決まり、これに基づいて全ての施設は撤去された。
 第二次大戦後、社会の安定と共に庄川峡は再び観光地として注目されるようになり、昭和二十五年(一九五○)にある新聞社が行なった全国観光地の人気投票でも上位に入る程であった。
 こうした状況の中で、観光地庄川峡への足として青島町 —小牧間の鉄道復活が計画され、翌二十六年十二月に加越能鉄道が同区間四・七キロの電気鉄道敷設免許を取得した。この計画は 同二十七年に発刊された『富山県総合開発計画書』でも、林産・電源開発や、庄川流域一帯への観光振興の立役者として期待されていた。
 しかしこの計画はその後平行道路の整備や、モータリゼーションの進行により、結局実現には至らなかった。また、青島町(一九五五年に「庄川町」と改称)まで運行されていた加越能鉄道加越線(元加越鉄道線)自体も、モータリゼーションの進 展に伴う乗客減少により、四十七年九月十五日限りで廃止され、庄川町から鉄道の姿が消えた。

 

おわりに
 電源開発の資材輸送用として建設される専用鉄道は、本来工事の終了と共に撤去される仮設備的な存在である。しかし庄川水電の専用鉄道は、発電所建設中にはダム建設に反対する抵抗勢力との抗争の舞台となり、工事完成後は木材流送の代替施 設、あるいは新名所庄川峡への観光鉄道として活用されるなど、特異な経歴を持つ存在であった。筆者の力不足で今回は輸送数量等の具体的数 値は分からなかったが、引き続き調査は継続してゆきたい。富山県内には、他にも黒部川沿いに建設された日本電力の専用鉄道(現・黒部峡谷鉄道)や 富山県営鉄道(現・富山地方鉄道の一部)など、電源開発に関連して建設された鉄道が存在している。今後はこうして鉄道の変遷についても、 検討を進めてゆきたい。



(1)【 日本電力株式会社十年史】(一九三三)五○二頁
(2)前掲書(1)五○三頁
(3)『鉄道省文書庄川水力電気』(国立公文書館所蔵)
(4)前掲書(3) 
(5)前掲書(1)五○六〜五○八頁
(6)前掲書(3) 
(7)前掲書(3)「専用鉄道敷設工事竣功期限延期ニ関スル件」(大正十三年九月三十日附)
(8)前掲書(1)五○七〜五○八頁
(9)前掲書(1)五一一頁
(10)前掲書(3) 
(11)『鉄道ピクトリアル』六三一号(一九九七)九七頁、なお工事の竣工監査は大正十五年一月二十八日に行われている。
(12)前掲書(3) 
(13)前掲書(3) 
(14)「庄川水力電気会社と加越鉄道の睨合ひ」(『高岡新報』昭和元年十二月二十七日夕刊)他
(15)前掲書(14) 
(16)『 庄川町史上巻』(一九七五)六三○〜六三一頁
(17)前掲書(3) 
(18)前掲書(3)、ちなみに前掲書(11)では八月一日とされている。
(19)「庄電対加越鉄道の争ひ漸く円満解決」(『高岡新報』昭和三年五月二十日付)
(20)『庄川町史下巻』(一九七五)三七七〜三七八頁、その後同年八月に庄川水電側より新啓及び南佐民(後の綿貫佐民)が加越鉄道の取締役に 就任し、九月には減資(資本金一○五万→八二万五○○○円)が、昭和五年五月には電力側(庄川水電・昭和電力)引受による増資(資本金八 二万五○○○円→一八二万五○○○円)が行われ、同社は電力会社の支配下に入った。
(21)前掲書(3)「専用鉄道一部撤廃ノ義ニ付キ認可申請」(昭和三年十二月十日付)
(22)『 庄川筋に於ける流木問題に就いて』(一九三一)三頁
(23)「木材の鉄道輸送に用水側が捻ぢ込む」(『富山日報】 昭和八年一月二十九日付)
(24)前掲書(22)一四〜一五頁
(25)前掲書(22)二六〜二八頁、五二〜五三頁
(26)前掲書(16)六五五〜六五六頁
(27)「庄川沿岸民二百余大挙県庁へ押し寄す」(『 富山日報]昭和八年一月十日タ刊)
(28)「電力側一大決意で湛水区域へ運材す」(『富山日報』昭和八年一月二十六日付)
(29)前掲書(28)
(30)前掲書(23) 
(31)「庄川運材問題果然爆発して六百の人夫大乱闘」(『富山日報』昭和八年一月三十日付)他
(32)「庄川問題に指令 運材中止命令の解除を知事発表」(『富山日報』昭和八年二月二日タ刊) 他
(33)「庄川本流の木材全部の輸送完了」(『富山日報』昭和八年二月二十四日夕刊)他
(34)前掲書(16)六三八〜六三九頁
(35)「庄電問題根本解決へ」(『 富山日報』昭和八年八月八日夕刊)他
(36)「庄川八ヶ年の争ひいよいよけふ手打」(『富山日報』昭和八年八月十二日タ刊)他
(37)「庄川の新名所大湖水への専用鉄道けふ開通」(『 富山日報』昭和六年四月三日付)他
(38)前掲書(20)三六五、三六七〜三六八頁
(39)前掲書(3) 
(40)「庄川堰堤の遊休搬送設備県下港湾の石炭荷上げに活用」(『北日本新聞」昭和十八年八 月二十九日付)