中越鉄道

 近代に入り、となみ野は大きな発展を遂げます。そのきっかけのひとつが鉄道の開通でした。
 東京の新橋−横浜間に初めて陸蒸気が走ったのは明治5年。そのわずか25年後の明治30年、 福野−黒田(高岡)間に中越鉄道が開通します。世紀の難事業を成し遂げたのは、鷹栖村(現・砺波市鷹栖)の地主、大矢四郎兵衛 (1857−1930年)。若くして金沢・竹下塾に学んだ大矢は、北前船航路の基地だった庄川・小矢部川河口の伏木港ととなみ野を結び、米と肥料(魚 肥=干鰯)を運ぶことを考えます。小矢部川に水運会社を設けた後、地主たちや高岡商人の出資を募り、鉄道会社を設立。開通にこぎつけます。
 当時の地域近代化の要は鉄道建設で、砺波地方には金沢と結ぶ鉄道建設のほか、富山や名古屋と結ぶような構想も語られていました。
 大正4年には、旧青島村(旧庄川町、現砺波市)の人たちが中心になって、青島−福野間に砺波鉄道を開業。さらに、金沢と砺波を結ぶため設立された金福鉄道と合併、加越線と改称して、北陸線の石動駅まで延長されます。
 中越鉄道も高岡駅で北陸線に接続、さらに、伏木港まで延長されます。となみ野は東西十文字の鉄道によって、自由な行き来ができるようになりました。
その立役者だった大矢は、日刊新聞発刊、活版印刷会社設立など、地域文化にも貢献。衆院議員、鷹栖村長などを歴任し、政界でも活躍しましたが、鉄道経営の赤字と、高岡資本のとの確執で、私財を失い、失意のうちに北海道へと移り住みまし た。
 鷹栖村史には、大矢が帰郷した際の逸話を紹介しています。いわく「大矢翁が北海道から帰省し たとき、中越線の列車に乗って窓から顔を出し『おゝ列車も長いのう』と感慨深くつぶやいた。折からの一陣の風が翁の帽子を吹き飛ばした。列車は たゞちに停車し、車掌は帽子を拾いうやうやしくさゝげたという。さもあろう。」。大矢は理想に殉じたとなみ野の悲劇の偉人として紹介されているのです。
 あまり知られていませんが、小樽近くの共和町で牧場経営に挑んだ大矢は、農業者の代表に推さ れ、当時、国策会社として事業を拡大していた国富銅山の煙害反対運動に関わります。そして、その運動が形ばかりの勝利を収めようとした矢先、仲間 の離反のなか、失意のうちに自ら命を絶ちます。
 最後まで理想に殉じた大矢の生き様は、となみ野の人たちの心にいつまでも語り継がれていくように思います。

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(左は鷹栖神明宮に立つ大矢四郎兵衛の像。戦時中に供出され、昭和35年に再建された。右は砺波郷土資料館で開催された「城端線開通百年展」のパンフレット)