豊かさの源2(教育)
“加賀藩の米蔵”として、富を蓄積した砺波地方では、学術文化を重んじた藩の影響を受け、学究の気風が広 く人々の間に定着していました。
豪農の子弟などで金沢に学ぶ人も多くありました。中越鉄道の初代社長、大矢四郎兵衛も金沢の漢学校、竹下塾に学んだといわれています。
いつの世にも、地域を富ませる基本は、人材の育成にあります。砺波地方では明治27年、福野町(現・南砺市)に富山県簡易農学校(後の福野農学校、福野高校)が置かれました。全国でも最も早い時期の設立で、費用の一部は、福野町から10キロ以上も離れた東般若村(現・砺波市)の篤志家が「砺波平野の中心に農学校を」と寄付をしました。
明治42年には旧制砺波中学(後の砺波高校)は鷹栖村(現・砺波市)に置かれました。大正11年には津沢町(後の砺中町、現小矢部市)には砺波高等女学校(後の砺波女子高校、現となみ野高校)が開校。明治30年に既に中越鉄道(城端線)が 南北に、大正4年には砺波鉄道(加越線)が整備されていましたから、砺波野のどこに住んでいても、比較的簡単に自宅通学で中等教育を受けることができました。
戦前、地方の農村部で中等教育機関に通うことはそれぞれの能力以外に、経済面などハードルも高かったでしょうが、向学の志にさえ燃えていれば、どこに住んでいても自宅からなんとか通える(もちろん、学費を工面できてのことですが…)と いうことが、大変な強みであったことは、想像に難くありません。そして、当時の農村で、どの集落にも“学校出”がいた、ということは、地 場産業の振興など地域の発展に大きな意味を持ったことでしょう。
戦後の学制改革の後も、鉄道沿線に戸出女子高校(現高岡南高校)、福光高校(南砺総合高校福光高校)、井波高校(南砺総合高校井波高校)などの高等学校が置かれ、農村地域にも関わらず、通学の便は大変恵まれていました。
そのような学究の伝統は、未来を切り拓くために、自らの歴史を学ぶことにもつながっていったことと思われます。散居村を学ぶ人たちが多かった理由は、単に散居村という特異な地域景観だけでなく、そこに住む人々の歴史の中にもあった、といえるのではないでしょうか。

(国指定重要文化財の福野農学校校舎「厳浄閣」)



