瑞泉寺 (南砺市井波)

 瑞泉寺は山号を杉谷山といい、明徳元年(1390)本願寺第5代綽如上人によって開かれた寺院です。本願 寺第8代蓮如上人も度々瑞泉寺を訪れ、北陸における布教の拠点としました。また、北陸の真宗信仰の中心であると共に、一向一揆の拠点ともなり、周 囲に堀をめぐらし、石垣も築かれ、城塞のような伽藍になっていました。瑞泉寺は土地の権力者に抵抗するなど大きな勢力を誇っていました が、16世紀に佐々成政に焼き払われて他所へ移り、一時衰退しました。しかし、江戸初期には現在の位置に再建され、越中における真宗の触頭として の役割を担うようになります。
その後、宝暦の火災(1762)で瑞泉寺は焼失しますが、翌年から再建が始められました。本山も瑞泉寺の再建に力をいれ、本山から大工を派遣しました。井波の大工は京都の大工の元で腕を磨き、瑞泉寺の再建を通して寺社建築で名高い井波大工の 技術と伝統を築きました。明治12年(1879)、山門と式台門を残し、再び瑞泉寺は火災で焼失してしまいます。現在の本堂は、井波大工 の松井角平恒広を棟梁として1885年に再建されたもので、北陸の寺社建築を代表する建物のひとつになっています。阿弥陀如来を本尊とし、宗祖親 鸞聖人の御影や後小松天皇の尊牌が安置されています。

瑞泉寺山門

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 県の重要文化財になっている山門は、宝暦の火災(1762)の後に建てられたものです。宝暦火災の再建は本山から派遣された柴田新八郎ら京都の大工によって始められましたが、途中本山である東本願寺の復興工事が始まったため井波大工が後を引き継ぎ、山門を完 成させました。京都の彫刻師前川三四郎が山門に彫った龍は、明治の火災(1879)の際に近くの笠松に登って水を吐き、山門を火の手から守ったと伝わっています。山門には他にも井波大工が彫った精緻な彫刻が多数見られ、井波彫刻の源流を伺うことができま す。

太子堂

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 本堂の左隣の太子堂は、大正7年(1918)に再建されたもので、建物の随所に優れた彫刻を見られる井波彫刻の粋をつくした建物です。 本尊は後小松天皇から瑞泉寺の開基・綽如上人に賜った聖徳太子二歳像です。瑞泉寺には絹本着色聖徳太子絵伝8幅が伝わっていますが、江戸時代から聖徳太子像の開扉と絵伝8幅の絵解きがおこなわれてきました。毎年7月21日から29日までの9日間、太子堂で は、掛け軸に描かれた絵と共に聖徳太子の一生が語られる「太子伝会」が行われています。瑞泉寺に伝わる「太子伝会」は、全国的に も珍しい行事です。

柱などには見事な彫刻が施され、職人の技を今に伝えています。

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(左は井波彫刻の祖、田村七左衛門の作「獅子の子落とし」。右は彫刻の工房などが並ぶ門前の通り)