妙好人(みょうこうにん)

 浄土真宗には、「妙好人」と呼ばれる人達がいます。「妙好」という言葉は、もともと蓮華の美しさを称する 言葉ですが、それを人に当てはめ、その信仰や心の美しさをたとえて「妙好人」といいます。
浄土真宗が説く他力の教えでは知恵や才覚などは信仰を深める妨げになることもあると説いてい ます。また、社会的・政治的に圧迫され、地位や権力を持たない人々の間で浄土真宗が熱心に信仰されてきた背景も加わり、「妙好人」は地位も名誉も ない、市井で暮らしているごく普通の人間の中に多く見出されてきました。信心を生活の中心に据えて生業に励み、人生の苦難すら恵みと受け 取って感謝の内に生きた人々が「妙好人」と呼ばれているのです。真宗王国である砺波では、赤尾の道宗と砺波庄太郎という2人の「妙好人」が知られています。

 

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赤尾の道宗
赤尾の道宗(生年不詳〜1516)は越中五箇山赤尾谷の出身で、俗名を弥七といいました。生年は不明ですが、18歳で本願寺第8代・蓮 如上人と出会い、上人から直接教化を受けた人物です。蓮如上人の御文にも「ココニ越中ノ国ノ赤尾ノ浄徳トイイシモノノ甥ニ、弥七 トイイシ男アリケルガ、年ハイマダ三十ニタラザリシモノナリケルガ、後生ヲ大事トオモヒテ、仏法ニココロヲカケタルモノナリ」と弥七の名で登場しています。幼い頃に両親を亡くした弥七は、父母に似た五百羅漢を探す旅に出ましたが、その旅の途中「京都の蓮如上人を訪 ねれば、別れる事のない親に遇える」という夢のお告げを受け、京都の本願寺を尋ねました。

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(南砺市上平村の行徳寺と、同寺蔵の「割木の上で眠る道宗像」)

 本願寺は宗祖親鸞聖人の報恩講の最中で、蓮如上人の尊いお姿とありがたい法話に遇い、弥七は感激の涙を流 して3日3晩座を立たずに聴聞したといいます。弥七の熱心な姿は蓮如上人の目に留まり、お側に留まることが許されて上人の元で本願念仏の教えに帰 依するようになったそうです。道宗という名を賜わり、郷里の赤尾に帰りますが、その後も、一日のたしなみとして、朝には阿弥陀様の前で勤 行してお礼をし、一月のたしなみとして、瑞泉寺にお参りしました。一年のたしなみとしては、京都の本願寺にお参りを欠かさなかったといいます。自 ら念仏の聞法道場を開き、五箇山の人々と共に真宗の教えを喜びました。この道場は後に赤尾の行徳寺となり、今日も真宗の教えと道宗の心を 伝えています。
 道宗は阿弥陀様のご恩を忘れないように自身を戒め、阿弥陀如来の48願になぞらえた48本の割木の上で眠り、痛みで目覚める度、念仏を称え感謝したそうです。割木の上で眠る道宗の木像が行徳寺に伝わっていますが、この木像と道宗の人柄に 感動した版画家棟方志功も道宗の版画を作製しています。道宗は深く自己を見つめて、真宗の門徒としてあるべき姿を戒めた「赤尾道宗心得二 十一箇条」を残しています。

「赤尾道宗心得二十一箇条」はこちら

砺波庄太郎

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 明治の妙好人として知られる砺波庄太郎(1834〜1903)は、砺波市頼成で生まれ、本名を坂東忠兵衛といいましたが、砺波郡の出身であることから、砺波庄太郎と皆から呼ばれました。幼いころから信心深く、よく働き、親孝行で、近所の若者のお手本のような人物であった そうです。火災で焼けた東本願寺の再建の為、全国から沢山の門徒が集まり工事にあたっていた頃、25歳になった庄太郎は、自分も本山に奉 仕し、直接ご門跡から教化を賜りたいと強く願い、上京して砺波詰所での生活を始めました。再建中の東本願寺の近くには、砺波詰所の他にも 何十件と詰所が立ち並び、各詰所で暮らす人々は、昼間は再建工事に汗を流し、夜には総会所で仏法について語り合う生活を送っていました。庄太郎も毎夜総会所で法話を聞き、信心について語りあいながら、本山再建のために喜び勇んで力を尽くしたそうです。

 

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(砺波市頼成・坂東家蔵の「砺波庄太郎絵図」と現在の東本願寺御影堂)

 庄太郎の正直な仕事ぶりと、無私の報恩感謝の精神が、一層みなを活気づけ、驚異的な速さで、親鸞聖人の像 を祀る御影堂(ごえいどう)の再建が果たされました。
 しかし、御影堂が再建されてから3年の後、蛤御門の変により市中が大火に包まれ、東本願寺は 再び燃え落ちてしまいました。明治政府の仏教弾圧や財政難などで、なかなか本山再建に取り掛かれない時期が続きましたが、砺波詰所の2代目主人を 務めていた庄太郎は、諸国詰所の触頭(総まとめ役)に選ばれて、この再建の指揮を取ることになりました。出入の業者の中には不正や誤魔化しをしようとする者もありましたが、質素倹約を旨とし、日本中の門徒が本山に寄付した貴重なお金や用材を無駄にせず大切にする庄太郎の姿勢は周り の人々を感化し、業者の人々も共同でお講を開くなどし、信仰に根ざした商いを行うようになりました。この時にできた保信会という東本願寺 出入りの業者の組織は今日まで続いています。こうして門徒衆も業者も僧侶もみな心を一つに本山の再建に尽くしました。
 再建終了後、砺波地方の門徒の寄付によって砺波詰所は総会所近くの万年寺通りに場所を移し、聞 法・談合の道場として建設されました。庄太郎は生涯独身でこの砺波詰所の主人として参詣聴聞者の世話をしました。花見や観光に訪れた人は詰所には泊めず、真に仏法を志した者にはどんな苦労も厭わず親切を尽くしました。たとえ誰が相手であっても、必要とあらば 躊躇することなく注意をし、心に陰日なたのない庄太郎は人望も厚く、本山からも様々な仕事を任されていました。そして、本山の命で北陸募財巡回にあたっている際中病に倒れ、郷里で七十余年の生涯を終えました。

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 庄太郎の死後、砺波詰所名義にした庄太郎の沢山の貯金がでてきました。このことを知った砺波 の門徒は、庄太郎の貯金に自分たちの寄進を加え、本山の南側にこれまでより更に大きい三階建ての砺波詰所を建設しました。残念ながら、この時建て られた詰所は戦中戦後の混乱の中で失われてしまいましたが、砺波詰所はその後も場所や形態を変えつつも、庄太郎の道場として今日まで存続 し続けています。

(東本願寺山門=御影堂側から望む)

砺波詰所の紹介はこちら