中越鉄道の成立と展開

  草卓人 (「鉄道の記憶」桂書房刊所収)

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 明治三十年(一八九七)に開業した中越鉄道(現JR城端・氷見線)は、富山県最初の鉄道であるのみならず、日本海側最初の民営鉄道という歴史的意義を持っている。
 同鉄道成立期についての先行研究には「中越鉄道創業史」(注1)、地主層の産業投資という視点から展開された淡路憲治氏のすぐれた論文「中越鉄道敷設と地主層との関連」(注2)、「鷹栖村史」をはじめとした沿線市町村史が存在している。
 これまで、この鉄道を計画・設立し、私財を投げうって経営したのは砺波郡鷹栖村(現・砺波市鷹栖)の大地主・大矢四郎兵衛とする記述は、前述の淡路氏の論文を始めとした砺波地方の郷土史や伝記などにみられるが、史料考証については明らか にされていないようである。
 また、同社の開業時からの経営内容の推移についても、従来の研究は「中越鉄道開業二十周年誌」(一九一六年 刊)の記述に沿ったものが多く、特に財務内容についてはあまり検討されていないようである。
 本稿では中越鉄道の成立と展開、特に資本的背景や財務内容の推移、及び事業展開という角度から見た同社の経営状況と性格の変容について分析を試みると同時に、鉄道が沿線地域社会に与えた影響について考察を行いたい。また、従来伝承の域を 出なかった開業後の同社と大矢四郎兵衛との関わり合いについても検討したい。

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(写真は上から「下関村踏切」「建替え後の本社」「高岡駅周辺地図」)

 

創立と資本的性格
 中越鉄道の創始者については先にも触れた通り、大矢四郎兵衛であるとする説と、「中越鉄道開業二十周年誌」(以下「二十周年誌」)の記述に沿った吉田茂勝(富山市)とする説などが論じられているが、原史料については触れられていない。
 福光図書館に残る「谷村家文書」には、中越鉄道創業期の貴重な史料が含まれている。一つは同社創立時の概要が書かれた「中越鉄道株式会社創立略記草按」であり、(明 治二十六年九月中旬島田孝之吉田茂勝ノ両氏ハ射水砺波両郡ノ有志者ヲ訪問シ」高岡—福光—城端間に鉄道を敷設して、運輸交通の利便向上と 産業振興の起爆剤にしようと図ったという記述がある。もう一つは同時期(明治二十六年九月)と思われる島田孝之から谷村友吉(注3)あての手紙であり、砺波郡で大事業を行うため、技術家吉田茂勝を引き合わせたいとの記述が見られる。
 島田孝之(現・高岡市出身)は当時県内の政治的リーダー(改新党系)の一人であり、明治二十一年(一八八八)に北陸鉄道(注4)の建設が計画された際も筆頭発起人であった。吉田茂勝(富山市出身)は県の土木技師を勤めたり(注5)、明治 中期の大土木事業である琵琶湖疏水の工事にも参画(注6)するほどの力量を持つ土木技術者であった。
 「谷村家文書」には明治二十七年十一月付の吉田茂勝→谷村一太郎あての手紙(写真)がある。中越鉄道の収益に対する大矢の悲観的見通しを「観察ノ程度低キモノ」と批判し、地元有力者が不賛成なら独力で建設したいとの抱負が述 べられている。
 以上の史料から、中越鉄道の創立にあたって鉄道計画を発案し、積極的に県西部の有力者たちに働きかけてその実現に重要な役割を果たしたのは、島田(政治的影響力)と吉田(技術的裏付け)の両名であり(「二十周年誌」の記述とも符合)、大 矢は当初、鉄道計画に対してはむしろ消極的であったという従来と違った人物像が見えてくる。

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 明治二十六年(一八九三)九月下旬、東砺波郡出町(現・砺波市)で会社設立の協議会が開かれ、翌月吉田以下三十二名の発起人によって高岡—城端間二○哩(軌間二呎六吋)の仮免許が出願された(注7)。この年の八月には現北陸 線の敦賀—富山間の工事が開始され、九月には高岡—伏木間の伏木鉄道(発起人・堀田善右ェ門ほか二十五名)の出願も行われており(注 8)、高岡までの鉄道を建設すれば、砺波地方が北陸線と伏木港を介して全国市場に直結出来ることを見越していたのも、計画決定の 大きな理由の一つであった。吉田らの出願は途中軌間の変更(北陸線と同じ三呎六吋にする)等の修正を経て、翌二十七年(一八九 四)十一月十四日付(注9)で高岡—城端間十九哩(資本金三十五万円)の仮免許を下付され、発起認可となった。
 明治二十八年(一八九五)三月、発起人は株式の募集(七千株)を行ない、四月二十五日には創 立総会を開会して役員を選出(注10)(大矢は翌月社長に就任)(注11)した。同年十一月九日には本免許も下付されて中越鉄道は正式に成立し、 業務を開始した。
 次に同社の資本的背景を分析してみよう。(表1、2 参照)

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 設立初期(明治二十九年三月期)の株主構成を見ると、五十株以上の主要株主五十九名の内、六割近くにあたる三十五名が砺波郡の在住者であり、その持株数は総株数(七千株)の約三十二%に当る二二三五株であった。次いで多かったのは東京市在住 者の七名(九○○株)であり、その内六○○株は富山県出身の金融王安田善次郎とその一族名義であった。また、高岡市在住者はこの時点では六名で、持株数は七○○株(総株数の一○%)に過ぎなかった。
 右の数値から中越鉄道の資本構成をみると、当初同社の設立にあたって株式の三分の一を引き受 けたのは、砺波地方在住の農村経済を基盤とした大地主層であったことが分かる。この事実から中越鉄道建設にあたってその資本的背景の中心となった のは、砺波地方の農産物の物流を円滑化して高岡・伏木港で全国市場と直結しようとした同地方の地主層であったと言える。また、彼らに人望 のあった大矢が初代社長に選ばれたのも、農村生産者の利害に根ざした鉄道計画であったことを裏付けている。


経営状態の推移
 こうして成立した中越鉄道は明治二十九年(一八九六)六月に城端線の工事を開始する一方で、 伏木鉄道が免許申請を却下(注12)(明治二十七年七月)された高岡—伏木間を通って氷見に達する十二哩の免許を同年三月に出願し、その内、伏木 までの免許(五哩)を同三一年五月に取得した(注13)。
 明治三十年(一八九七)五月四日、城端線は黒田(現・高岡市)—福野間の開通を皮切りに十月には城端まで、翌年一月には高岡—城端間が全通し、営業を開始した。

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 開業後の輸送実績(表3、4参照)旅客人員が明治三十年度には早くも四十一万人と、当初予想(注14)の三倍近くに達した。旅客・貨物の収入も 翌三十一年度には予想の一・三倍近くの六万円台(当時)を計上して、その後も明治三十四〜三十七年度を除き「概ね年次逓増するを 見る(注15)」順調な推移を示している。また、経営収入を年度ごとの推移(表三・五参照)で見てゆくと、損失を生じた年度は存在せず、「利用客・貨物が少なく、初期の決算は常に赤字を出していた(注16)」という従来の説明は当てはまらないことになる。

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 しかし、輸送実績と収入の順調な伸びとは裏腹に、経常利益は明治三十三年度の二万七千円をピーク として翌三十四・三十五年度には三分の一以下の一万円未満に落ち込み、その数値が再び三十三年度の水準を上回るまでに五年を要し ている。さらに建設費に対する経常利益率も明治三十二年度には五%台を計上していたものが、同三十四・三十五年度には○%台となり、再び五%台を回復するのは同四十年度以降である。(表三・五参照)
 経常利益が一時低迷した最大の原因は借入金や社債発行に伴う支払利息の増加であった。中越鉄 道は当初資本金三十五万円の内、三十四万円を建設費に充当する計画であったが、工事中に起こった水害や「物価労銀著しく騰貴(注17)」したた め、明治三十年度の建設費は四十万八千円(注18)(除創業費)と既に資本金を五万円以上超過し、不足分は借入金でカバーしている。このため同社は明治三十一年(一八九八)三月の臨時総会で伏木線の建設費(二十万円)や高岡での北陸線高架横断建設費(四万円)及び、城端線仮設備改 修費(三万円)と合わせて三十五万円を増資(一株五十円を百円に変更)して、資本金を七十万円に変更した。(注19)

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 ところが伏木線が開業(明治三十三年十二月)した明治三十三年度末の建設費は八十四万二千円と資本金を十四万円以上も上回り、借入金 十二万円と社債三万円で不足を補う状態となった。(注20)さらにこれらの借入金を整理するため、明治三十四年(一九○一)に発行した二 十万円の社債(年利一○%)の利子負担が営業利益の三分の二を圧縮し、経常利益の大幅な低下をもたらしたのである。
 こうした利益の低下は配当率と株価の落下を引き起こした。明治三十四年度下半期から翌年度に会社は無配に転落し(注21)、翌三十五年度から三十八年度にかけて株価(安値)は十円台(五○円払込済)に暴落した(注22)。このため鉄道の 将来に不安を抱いた株主、特に地主層の間で持株を売却する動きが強まり、その株式の大半は高岡の商工資本家と安田一族らの手に移って(表 1・2参照)、中越鉄道の主導権は農村地主層(=生産者)から都市商業資本家層に握られる結果をもたらした。
 また、伏木線の建設が会社の財務状態を悪化させることを予想していた大矢は伏木線を小矢部川架橋を要しない同川岸の米島で打ち切り、高岡の北陸線立体交差建設による城端線との直通化と社内改革を主張したが(注23)、新たに会社の実権を 握った三代社長正村義太郎ら高岡商人たちと意見が合わず、明治三十二年(一八九九)十月には取締役を辞している(注24)。さらに大矢が 開催を求めた翌三十三年三月の臨時株主総会でもその意見は否決された(注25)。この時点で大矢は中越鉄道との関係を絶ち、政治家へ転進を図って いる。私財を会社に提供した記録も存在しない。

 

創業期の大矢の立場
 中越鉄道の創立は、砺波地方と高岡を結ぶ鉄道の建設に着眼した土木技術者吉田茂勝(旧富山藩 士吉田茂尚の子息(注26))が、明治二十六年(一八九三)に当時県内の政治的リーダー(改新党系)の一人であった島田孝之(現・高岡市出身)に 鉄道計画を持ちかけ、意見の一致を見たことに始まる。
 両者は同年九月中旬に「射水砺波両郡ノ有志者ヲ訪問シ」、高岡ー城端間の鉄道建設を呼びかけ たところ「皆ナ賛成ノ意ヲ表セシヲ以テ」、同月下旬に砺波郡出町(現・砺波市)で協議会を開催して中越鉄道株式会社の設立を決議し(注27)、翌 十月七日付で高岡—城端間の仮免許を出願した(注28)。
 「中越鉄道株式会社改革意見略書」(福光図書館所蔵、以下(略書」とする)によると、大矢の中越鉄道との関係はこの頃から始まり、(明治二十六年十月(注29)以来創立委員二選定セラレ或ハ各鉄道運営視察委員ニ推薦セラレ私費ヲ以テ各鉄 道ヲ視察シ或ハ仮免状及本免状申請ノ為メニ再三上京シ一日モ速カニ本鉄道ヲ敷設シ我地方ノ運輸交通ノ便ヲ開発シ以テ殖産興業ノ挙ンコトヲ 希望」していたとある。
 大矢は遅くとも仮免許の下付された明治二十七年(一八九四)十一月の時点では、鉄道の収益性に疑問を感じていたようである。当時の地方銀行が年一割前後の配当を行っていた時代に、大矢は鉄道の収益が年五分しか出ないという悲観的な見通し を持っていた。
 大矢の見解は、建設積極論者の吉田茂勝をして、「観察ノ程度低キモノ」と言わしめるほどの対局的なもの(注30)であり、さらに翌二十八年(一八九五)五月に取締役の推薦で社長に選ばれた際も、「就任ヲ辞セント欲セシニ当時ノ事情ハ余ノ 職ヲ去ルヲ許サヽルモノアリシヲ以テ」大矢はやむを得ず社長の座に就いたと記している(注31)。
 以上の点から大矢は社長就任の時点までには、中越鉄道への関与に対してはむしろ消極的な見解を懐いていたと言える。明治二十八年(一八九五)十一月、高岡—城端間の本免許を取得した中越鉄道は、同区間の建設に着手する。翌二十九年三月に 高岡—氷見間(同年十一月に高岡—伏木間に変更)の免許を出願し、同三十年六月に仮免許を取得した。伏木線延長の工費は当初二十万円が予 定されていたが、同線免許時の条件とされた北陸線高架横断(高岡)の費用四万円と、城端線建設の不足金八万円と合わせて三十二万円の増資が必要となった(注32)。
 当時同社の筆頭株主であった安田善次郎は、この資金の調達方法として旧株(三十五万円)を重役で買い集めた上で、重役と現株主で新株引受けの決議を行って株価の維持と新株募集の利便を計り、その募集に当たっては安田自身も知人に引受けを 依頼したり、一時金融を行う考えを持っていた(注33)。
 大矢はこれに反し、同年十月の臨時株主総会で新株の全額公募を決議した(注34)。このため、当時ようやく○・四%台(対建設費)の利益を計上(注35)していた中越鉄道の株価は、その前途に不安を感じた株主の思惑を反映して暴落(注 36)(一株当たり額面の五十円以上だったものが三十円台に下落)し、同社の信用を低下させた。同時に大矢は安田や島田の信用も失った。
 そこで大矢は新株を額面以下(四十三円払込)で募集することや、外国商人(サミュエル商会)からの資金借入れも検討したが、これは島田の忠告もあって中止され(注37)、結局、明治三十一年(一八九八)三月の臨時株主総会で一株当たりの 額面を五十円から百円に増加の上、現在の株主に差額を払い込ませて増資(資本金三十五万円→七十万円)するという無理な方法で資金調達を行う状況に追い込まれた(注38)。このため株主の中には株金の払込をためらって株式を失権させるものや、増資自体を無効として会社を告訴するも のも現れ(注39)、株主の会社に対する信用はさらに低下した。大矢は当時のことを「略書」で(株主諸君ノ希望ニ反セシ施設ヲナセシコト 多ク会社ノ利益ヲ謀ラント欲シテ却テ不利ヲ招キシコト少カラン今日ノ事業ノ振ハサル利益ノ挙ラサルハ或ハ余カ施設ヲ過リシニ因ルモノニシテ株主諸 君ニ対シ日夜恐懼シ且漸塊ニ堪へサル」と経営に責任を感じ、社長を引責辞任(一八九八年四月)したと記している。
 しかし、再び取締役に選ばれた大矢は「倍ニ自己ノ責任ノ重大ナルヲ感知シ且余カ社長在職中ノ経験ニ徴シ卿カ鉄道経済ノ何タルヲ学得セシヲ以テ自ラ信スル処ニ従へ社務ノ改革スへキハ改革シ遺利ノ拾フへキハ拾ヒ社紀ノ振粛ヲ謀リ冗費ヲ陶汰シ 或ハ経費ノ節減ヲ計リ建設ト営業トヲ問ス社務ノ刷新ト改良」を決意した(注40)。こうして社内の改革に着手した大矢は、会社内部の問題を分析した上でその改革を当局者に再三訴えたが、「奈何セン感情ノ為ニ余ニ特ニ反対スルノ人(注41)」もあって、「利害を排するに至りしを以て止むを得ずして」当時の地元紙「富山日報」に「中越鉄道整理の意見」を発表 し、明治三十二年(一八九九)十月の株式総会に向けてその是非を問うことになった。


社内改革案とその内容
 「意見」の内容は(1)資本金超過及その前後策、(2)仮コルべルトを当分木製本コルべルトと為 す事、(3)高架線の事、(4)用地の件、の四つの論点で構成されている。
 大矢はまず(1)の中で、資本金七十万円から城端線の建設・改良費で五十一万六千余円、伏木線の建設費と支払利息等で三十万三千余円、高岡駅高架建設費四万円を差し引くと約十六万円の予算超過(表参照)となり、さらに物価上昇分も加味す ると「倍々予算超過」も考えられ、「会社の前途の困難なる予想するに餘りあり」としている。この対策として、大矢は伏木線を小矢部河岸の米島で打ち切れば、建設費のうち約十一万円を節約(表6参照)し、予算超過は五万二千円余りに抑えられると主張した上で、さらに米島を終点にした 場合の利点について述べている。
 米島停車場設置の利点として挙げられたのは、①小矢部川架橋中止による工費十一万円の節約。 ②米島の河港としての利点(伏木港まで小蒸気船で連絡可能)。③米島に駅を設置すれば伏木町より人口の多い新湊町の旅客貨物も吸収できる。④伏木 延長は伏木築港計画が確定してからでも遅くはない。⑤伏木港域のうち、将来中心地となる場所も確定しない段階で伏木駅を設置する必要はな い。⑥伏木港が大型船への荷役に船を要する現状では、駅を伏木・米島のいずれかに設けても荷役の手間は同じである。⑦伏木駅予定地は埋立を要する上 に地元住民の反対も強いので工期の遅延も予想される。⑧伏木・米島のどちらにしても船荷役が必要ならわざわざ伏木へ延長する利点は無い。⑧伏木以 外に駅を設ければ従来伏木港の荷役で弊害になっていた「仲仕組」との関係断絶が可能。という九項目であった。(2)では城端線に残っていた木製の仮コルべルト(一〜五メートルの短い橋)の使用に関し、当時の正村社長が仮設備の継続使用許可(財政困難のため)を得ていたにも拘らず、事務長が独断でその許可を返上し、本設備への改築費二万六千円の負 担を会社に負わせた行為を非難している。(3)では伏木線の延長時には、運輸の安全と利便性及び会社の利益のために、高岡での北陸線高架 横断が必要だと述べている。
 その理由としては、①高架線が無ければ城端線と伏木線に別個の列車が必要となり、そのための車両不足と高岡駅構内での貨車入替の手間が生じる。②中越鉄道の貨物の多くを占める米穀・肥料等は城端・伏木線を直通する性格上、両線の接続に高 岡での入替を介した場合、貨物輻輳時の輸送力に不安が残る。③高岡での貨物連絡には貨物運搬人と貨車入替人夫の人件費が必要となる。④伏 木線を独立運行した場合の運行経費(燃料費・人件費等)増加。⑤高架線建設に伴う営業距離増加により、増収が図れる。⑥高架線にすれば別々のホーム から乗降や乗り換えを行う不便が解消される、との六項目が挙げられている。(4)では伏木線建設において真先に着手すべきである用地買収が進捗せ ず、これに反して測量費は不自然に増加し、城端線建設時の約一・五倍に当たる四千円近く(伏木線の距離は城端線の約四・五分の一)に達し ている不可解な事実を指摘して、意見の結びとしている。

 

中越鉄道との訣別
 大矢は「意見」の発表に先立ち、明治三十二年(一八九九)九月に自説を「株主諸君に訴へ諸君の高見卓説に拠り以て整理の美果」に結実すべく、一部の株主を集めた集会を開催した(注42)。さらに「意見」の発表後、大矢は上京して筆頭株主 安田善次郎にも直訴している(注43)。しかし、同年十月二十七日の臨時株主総会では、役員改選に併せて正村社長(高岡商人)派と大矢派との間で「交渉数回ありしもついに纏らず(注44)」 、取締役の大矢(農村生産者代表)と監査役の高廣次平(後に同社の社長に就任)は役員を辞任。新たな取締役には富山市の関野 善次郎(商業資本家)監査役に藤井能三(伏木町利害代表)が就任(注45)して、同社の経営陣は高岡商人主導に一新された。
 大矢はこれに屈せず、「米島停車場仮設並社務整理ノ件ニ関シ臨時株主総会開設請求書ヲ提出シ」総会の開催を要求した。翌三十三年(一九○○)三月四日に総会は行われたが、この総会でも大矢の主張する伏木線の米島打切りは否決さ れ、社務整理についてのみ(将来一層注意ヲ為ス旨」が答弁(注46)されて終了した。この時点で大矢は中越鉄道との実質的関係を絶ち、政 治家への転身を図っている。その後もしばらくは株主としての形式的関係は続いたが、伏木線の開業式(一九○○年十二月二十九日)に参列(注47) した以外には目立った動きも無く、明治三十五年(一九○二)に持株を売却して(注48)、名実ともに中越鉄道と決別している。私財を会社 に提供した記録も存在しない。

 

伏木線延長後の中越鉄道
 大矢の反対を押し切って計画全線が敷設された伏木線の建設費は、開業初年度(一九○○年)末で三十四万八千円余りに達し、城端線のそれを加えると総額で八十四万二千円余りとなって、資本金七十万円を十四万二千円も超過した。もちろん高架 線建設は行われていない。この結果、中越鉄道は建設費の不足分を社債(三万円)と長期借入金(十二万円)で補い、運転資金を短期借入金等 (九万一千円)で賄うという借金体質に陥った。
 翌年度にはこれらの負債を二十万円の社債(年一○%)に借り替えたため、その支払利息の負担 が増大して、旅客・貨物輸送の利益を圧迫した。(表参照)そのため会社は無配に転落し、それに伴う株価の下落を招いた。同社の累積債務は明治三十 八年(一九○五)以降の輸送収益の増加と、同四十二年(一九○九)の増資によって長期債務が完済されるまで経営の足かせとなっている(注 49)。大矢の予想は現実のものとなったのである。
 中越鉄道計画は、大矢のアイディアから生まれたものではなく、沿線地域以外の起業家が持ち込んだものであった。大矢は砺波地方で人望と地域開発思想を併せ持つ(注50)資産家の一人として、計画に受動的に参加したに過ぎなかった。そこに は後年「鉄道気違い」と評された印象は微塵もない。
 皮肉にも大矢は地元の期待を担って創立委員、次いで社長に選ばれて行く過程で、彼自身は鉄道 の収益性に悲観的な見解を抱きつつも、会社創立に奔走し、経営の先頭に立つことになる。社長となった大矢には、建設費の膨張による資金不足や反対 派重役の存在、一部社員の独走などの困難が次々に襲いかかった。遂には伏木線の米島打切(新規事業抑制)をメインとした社内改革を主張するが、その意見は容れられることなく却下され、大矢は会社を追われるという結末を迎えている。
 以上の動きを見てゆくと、当初から鉄道事業の低収益性を予想し、経営参画に消極的だった大矢 が、社長就任後は会社のトップとして押し寄せる困難に立ち向かい、加えて感情に流されず冷静・的確な判断力を持ちつつ、中越鉄道という社会資本の 実現を目指した地域開発のリーダーであったという人物像が見えてくる。伏木線開業後、大矢の予想通り会社に生じた財務状況の悪化を考え合わせると、大矢の経営者としての判断力がいかに優れたものであったかが伺える。
 中越鉄道のために心血を注ぎ、同社を追われた大矢が、後に財産を失って北海道に去っていった 事実や小作人に同情的だったイメージと重なり合い、後に「鉄道に私財を投げうった悲劇の主人公」と称されるようになったのも無理からぬことであっ たのかも知れない。


地域経済への影響
 日露戦争の終了した明治三十八年度以降、中越鉄道の輸送量と営業収入は増勢に転じた。利益の増加は配当率と株価の上昇をもたらし(注51)累積債務の償還を可能にした。明治四十二年(一九○九)の八十五万円への増資払込金によって長期債 務を完済した同社は、大正元年度には一割二分配当を行なう優良企業に成長している。
 大正元年(一九一二)に伏木港の第一期改修工事が完成し、大型汽船の直接荷役が可能になると、「伏樽間直通航路開始せられ船車連絡となり北陸線開通して北海道と京阪、名古屋、信越の各地との関係は伏木港に因って距離著しく短縮せられ若 しくは便宜となり貨物激増(注52)」して伏木線の勢力範囲は砺波地方以外の地域に拡大した。ちなみに客貨の輸送量は大正二年度の時点で 旅客が明治三十三年度の二倍近くの百四万人、貨物も同じく六倍近くの十八万トンに達し、営業収入も二・六倍の二十万円台と大幅な伸びを見せている (伏木—氷見間を除く)。
 さらに海陸交通の完備した伏木港の周辺には第一次大戦(一九一四—一九一八)以降、富山県の豊富・低廉な水力電気と労働力を求めた重化学工業の立地が県下でいち早く行なわれ、中越鉄道は伏木工業地帯への大動脈という性格も帯びるように なった。業績好調となった中越鉄道は大正元年(一九一二)には伏木—氷見間を軽便鉄道(注53)として延長し、同時に島尾遊園を開設して観光客誘致にも乗り出した。氷見線の延長後は「列車増発となり機関車の増備を要し島尾遊園開設して其設備の完全を欲す乗客年々増加して客車の不足 (注54)」を生じた。特に高岡ー伏木間は「旅客貨物の輸送日を遂ふて頻繁と為り普通鉄道のみにては運び難き(注55)」状況となったため、大正二年(一九一三)には同区間に電車併用の計画が構想され(注56)、同七年(一九一八)に伏木—高岡間の電車併用と高岡市内への電車軌道延長願を申請(注57)している。また同年一月には伏木線の「海陸連絡ノ設備不足(注58)」への対処と新湊町への連絡を図るため、能町—新湊間 二・一哩の新湊線が延長されている。
 こうして商都高岡を中心として氷見・伏木・新湊・城端に路線網を拡大し、県西部の一大交通企業に成長した中越鉄道は、伏木港の輸出入増大と周辺地域の重化学工業による経済発展に大きく寄与した。また従来、高岡商人に米や肥料の価格決定と 売買を掌握されていた砺波地方には他地域から商人が入り込み、彼らとの米穀・肥料の直接取引が行なわれて、その商取引の地域が拡大され(注59)。
 同地は大都市を中心とした全国的経済圏に組み入れられ、城端線の各駅は、高岡や伏木港を介して農産物の移出や肥料の移入を行なったり、伏木工場地帯へ労働力を送り出す新たな経済交流の拠点となった。
 以上のように中越鉄道は地域経済の発展及びその再編に大きく関与してきたが、高岡—伏木間を中心とした貨物量の増大はしばしば私企業ゆえの貨車不足と滞貨を招くようになり(注60)、逆に経済発展の足かせになるという弊害をもたらした。 同社が明治四十三年(一九一○)以来の官有化請願により、政府に買収されたのは大正九年(一九二○)九月一日であった。また、大正七年(一九一八)の中越鉄道の出願に始まる高岡伏木間への電車導入の動きは、高廣次平(注61)・正村六之助らによる高伏電気軌道計画(注62)を経 て、昭和二十三年(一九四八)の富山地鉄伏木港線(一九七一年廃止)開業によって実現している。

 

結 語
 越鉄道が日本海側最初の民営鉄道としていち早く開業に漕ぎつける事が可能になったのは、砺波地方における鉄道事業の有用性をいち早く発見した吉田茂勝の技術家としての先見性と、彼を支援して県西部の資産家を糾合した島田孝之の政治的影 響力であった。また、同社の設立にあたって出資者の中心となったのは大矢四郎兵衛を始めとした砺波地方の地主層であり、言うならば農村生 産者の利害に基づく鉄道建設であった。
 一方、開業後の輸送実績と収入は開業後の早い時期に当初予想を上回り、概ね順調な推移を示している。ところがこれとは裏腹に、予想外に膨張した建設費に充当するための借入金や社債の金利負担が利益と配当率を圧縮している。このため鉄道の 将来を危倶した地主層の株主売却によって株価は下落し、伏木線建設による会社の無配への転落によってそれは決定的となった。
 こうした状況の中で鉄道の株式は高岡商人や安田一族の手に移り、同社の経営権は都市商工資本家層に握られた。また、伏木線建設に反対した大矢(農村生産者代表)は新経営陣と挟を分かち、会社を去っている。
 しかし日露戦争以降の経済発展と伏木築港の完成は、伏木線を城端線以外の他地域からも多くの 客貨を集める「ドル箱路線」に押し上げて累積債務を一掃し、中越鉄道を年一割配当の優良企業にしている。さらに伏木港改修と伏木線開通による海陸 運輸の完備は大正期以降、同港の交易量及び勢力範囲の拡大と、伏木港岸工場地帯の形成を促進し、更に輸送量を増加させて、高岡—伏木間に新たな輸送路建設の気運をもたらした。同社自体も島尾遊園のレジャー事業への進出による乗客誘致や、輸送量増加への対処として市内電車を計画するなど、大都市周辺の私鉄と同じような事業分野に進出して、高岡・伏木地区の経済発展に大きな役割を果たした。
 以上の過程を概観すると、当初農村地主層(=生産者)の利益増進の手段として建設された鉄道 が、都市商工資本家層に農村や他地域から人的・物的資源を迅速、大量に供給させ、その拡大に貢献する輸送機関に変容していった過程が見えてくる。 しかもこの時期は日清・日露戦争を通じた日本の産業革命期(資本集積・工業化)とも軌を一にしている。
 中越鉄道の成立と展開は単に富山の一地域に限定される出来事ではなく、全国的に展開された日 本の近代化過程(農村自給経済→都市主導経済)での、一つの縮図だったと言えよう。
 なお本稿では輸送品目や、駅別の乗降人員等の推移からの分析、及び日本の鉄道全体から見た同 社の地位についても検討したかったが、紙数の都合上割愛せざるを得なかった。これらについては、次の機会に検討したい。
 最後に史料の調査に当たって御協力をいただいた交通博物館と福光図書館、本稿を草するにあ たってお世話になった中川敦子先生(富山県古文書研究会)その他の皆様に厚く御礼を申し上げたい。

 


(1)「越中史壇」第十号(一九五七)
(2)「富大経済論」第一二巻二号(一九六六)
(3)中越鉄道の大株主であり、同社の庶務課に勤務した谷村一太郎の父
(4)富山—武生間及び伏木・七尾への支線を含む鉄道敷設を目的として明治二十二年(一八八 九)に仮免許を取得するが、発起人間の意見不一致等から同二十四年に官線敷設の請願を決議して解散
(5)「富山県富山始審裁判所職員録」明治十七・十八年版(一八八五)
(6)「明治二十七年九月刊行訂正琵琶湖疏水要誌全」京都府参事会(一八九四)二一一頁
(7)「中越鉄道開業二十周年誌」同社(一九一六)一〜三頁
(8)「富山県下伏木湊高岡間鉄道私設ニ付願」(高岡市立伏木図書館所蔵「藤井家文書」所収)
(9)「中越鉄道開業二十周年誌」では十一月十三日付となっているが、仮免状(交通博物館所蔵「鉄道院文書」所収)上の日付は十一月十四日となっている。
(10)前掲書(7)七頁
(11)「中越鉄道株式会社創立略記草按」(福光町立図書館蔵「谷村家文書」所収)
(12)「藤井家文書」(高岡市立伏木図書館所蔵)所収
(13)前掲書(7)八〜一三頁
(14)「中越鉄道株式会社企業目論見書」によると一年当りの乗車人員を一五万人、旅客貨物の収入を四万八千円と見込んでいる。
(15)前掲書(7)三四頁
(16)「砺波市史」(一九六五)八三八頁
(17)前掲書(7)一四頁
(18)「中越鉄道株式会社第五回報告」(交通博物館所蔵)
(19)前掲書(7)一四頁〜一六頁
(20)「中越鉄道株式会社第拾壹回報告」(交通博物館所蔵)
(21)前掲書(7)第六表参照
(22)前掲書(7)第一三表参照
(23)大矢は明治三十一年(一八九八)四月に社長を辞して取締役になっていたが、会社の経営方針に対する疑問から「中越鉄道整理の意見」(『富山日報』一八九九年十月十二日〜十五日付連載)と題した論説を世に問い、上京して筆頭株主安田 善次郎にも直訴している。
(24)「中鉄通常総会」(『富山日報』一八九九年十月三十日付)
(25)「中越鉄道株式会社第九回報告」(交通博物館所蔵)六〜七頁 なお、この総会を最後に大矢が会社との関係を絶った事が、後に「明治三十三年社長退任」と誤って伝承される事になる。
(26)「吉田茂尚氏逝く」(『北陸政論』一九○○年十二月六日付)
(27)「中越鉄道株式会社創立略記艸按」(谷村家文書)
(28)「富山県下高岡城端間小汽鑵車鉄道私設ニ付願」(交通博物館所蔵「鉄道院文書」)
(29)「中越鉄道開業二十周年誌」(一九一六)四頁では翌年四月四日となっている。
(30)吉田茂勝→谷村一太郎宛書簡(一八九四年十一月二十四日付、谷村家文書)
(31)「中越鉄道株式会社改革意見略書」(谷村家文書)
(32)前掲書(7)一一〜一五頁
(33)島田孝之→大矢四郎兵衛宛(一八九七年十二月一七日付、谷村家文書)
(34)前掲書(7)一四〜一五頁
(35)前掲書(1)一一頁第三表参照
(36)前掲書(7)第十三表参照
(37)前掲書(33)
(38)前掲書(7)一五〜一六頁
(39)「中越鉄道株式会社第拾壱回報告」(交通博物館所蔵)一七〜一九頁他
(40)前掲書(3l)
(41)前掲書(3l)
(42)「中鉄一部株主の集会」(『「富山日報』一八九九年九月二十四日付)
(43)「大矢氏の上京と中鉄問題」(『富山日報』一八九九年十月二十二日付)
(44)「中鉄通常総会」(『富山日報』一八九九年十月三十日付)
(45)「中越鉄道株式会社第九回報告」(交通博物館所蔵)六頁
(46)前掲書(25)六〜七頁
(47)「中鉄伏木線開業式」(「富山日報』一九○一年一月一日付)
(48)草卓人「中越鉄道の成立と展開」(『近代史研究』二十一号、一九九八)五頁
(49)前掲書(48)六〜七頁
(50)砺波市鷹栖自治振興会「鷹栖村史」(一九六二)によると、大矢は鉄道以外にも舟運や道路の改良、地場産業の振興、新聞の発行や印刷所の創立など地域の産業・文化の育成に尽力したとされている。
(49)前掲書(7)第六・一三表
(52)前掲書(7)二〇〜二一頁
(53)拙著「立山軽便鉄道の成立と性格」(『近代史研究』第二○号、一九九七年)六四〜六五頁参照
(54)前掲書(7)二一頁
(55)前掲書(7)四五頁
(56)前掲書(7)四五頁
(57)「高岡伏木間鉄道へ電車併用願(一九一八、三、一五)」・「電気軌道敷設特許申請(一九一八、四、一)」(交通博物館所蔵『鉄道院文書』所収)
(58)「軽便鉄道敷設免許願副申」(一九一六、八、二五)(交通博物館所蔵『鉄道院文書』所収)
(59)「中越鉄道株式会社第拾回報告」(交通博物館所蔵)一九〜二○頁
(60)「伏木港史」(一九七三)四五五〜四五七頁
(61)現福岡町出身の大地主・金融資本家で中越鉄道の第四代社長を勤めた。
(62)「高伏電気軌道鉄道敷設願却下ノ件」(『鉄道省文書』所収)


草 卓人
一九六二(昭和三七)年、東京都渋谷区に生まれ(両親は入善町出身)。
一九八五(昭和六○) 年、大学卒業後、㈱大光銀行に入行。
一九九四(平成六)年、富山へ転居、立山高原㈱(立山国際ホテル)に入社。現在業務部アシスタントマネー ジャー。
一九九七(平成九)年、玉川大学教育学部(通信教育)博物館学芸員課程修了(資格取得)
富山市日本海文化研究所研究員、越中史壇会会員、富山近代史研究会員、大山町歴史民俗研究会幹事
著書(共書)「とやま近代化ものがたり」(一九九六年)、「萩浦郷土史」(二○○二年)、「 豊田郷土史」(二○○三年)、「大沢野町史」(二○○五年刊)ほか