史料紹介『砺波鉄道監査復命書』

草 卓人(「鉄道の記憶」桂書房刊所収)

 昭和47年に廃線となった加越線(庄川町青島—井波—福野—津沢—石動)は国鉄城端線(現在 のJR城端線)と福野で交差しながら、砺波平野を東西に貫き、国鉄北陸線(現・JR北陸線)と接続。地域の近代化に大きな役割を果たしたが、その 歴史はあまり詳しく紹介されていない。本稿は鉄道院・五島慶太参事(後の東急電鉄の創業者)の報告書を基に、混迷の創業時の様子を明らか にしている。

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はじめに
大正七年(一九一八)一月、鉄道院(当時)の係官五島参事らの一行が福野—青島町(→庄川町)間六・七キロを結ぶ地方小私鉄であった砺波鉄道㈱(後の加越鉄道)の監査に乗り込んだ。
鉄道院が砺波鉄道の監査に踏み切ったのは、大正元年(一九一二)の会社設立以降、当初の計画線であった青島町—福野—石動間の建設が遅々として進まず、三年後の同四年七月二十一日に青島—福野間の開業に漕ぎ着けたものの、残区間の工事が 依然として完成の目途が立たない状態にあった同社の内状を調査し、将来石動までの全線建設が可能かどうかの事業遂行能力を見極める事が目的であった。一月二十一日付で係官の五島参事らは、監査の結果をまとめた報告書を鉄道院監督局長に提出し た。これが現在国立公文書館に所蔵されている「砺波鉄道監査復命書』(以下『復命書』とする)である。
『復命書』の内容は、一、設立・二、紛優・三、刑事事件・四、会計状態・五、会社ノ営業状態・六、 整理方法の六章より構成されており、当時の砺波鉄道の内状を余す所なく伝えている。もちろん記述の中には『庄川町史』(一九七五年刊)や『富山地方鉄道五十年史』(一九八三年刊)で既に発表されている内容も存在する。しかし両書記述時の一次史料の出典を知る事の出来ない現在、当時の状況をリアルタイムに記録した『復命書』 の内容を紹介する事は、決して無駄にはならないと思い、ここに紹介させていただく次第である。


1.設立から開業へ
次に「復命書]の内容を順に紹介していきたい。「一、設立」の項では、明治四十五年(一九一 二)頃、庄川河畔の木材集散地青島村(現・砺波市庄川町)の木材業者の代表である平野増吉らが、木材運搬の円滑化を目的とした青島村から中越鉄道 (現在のJR城端・氷見線)福野駅まで四哩一分(六・七キロ)の区間での鉄道計画と、砺波地域から金沢方面への短絡交通路の建設を目指 し、福野駅と北陸線石動駅を直結する鉄道敷設を構想していた津沢町(現・小矢部市)有志の計画が、「其ノ設計技師ヲ同フシタル関係ヨリ遂ニ合同シ テ茲ニ青島村ヨリ石動ニ至ル鉄道ヲ発起」する事になった。発起人たちは大正元年(一九一二)九月九日附で同区間一一哩七八鎖(軌間三呪六 吋)の敷設免許を取得し、同年中にその経営主体となる砺波鉄道㈱(資本金三五万円)を設立した。当初の株式引受及び第一回の株金払込、設立費用 の支出は検査役の検査を経て適法に行われた。
会社成立翌年の大正二年五月、全区間の工事施行認可を得た砺波鉄道は青島側より工事に着手したが、福野までの敷設工事が終わった頃から工事はストップし、「会社ノ事業ハ全然放棄セラル」事態に陥った。
『復命書』はこうした事態に至った要因を「二、紛優」の中で
(1)米価下落に起因する地方景気の沈滞(株金払込が停滞し、資金不足を招く)
(2)専務取締役平野増吉による「専横ノ挙動アリシ為メ重役及株主ハ二派ニ分レテ軌轢」した事実を挙げ、さらに平野の「専横ノ挙動」については、
1、事業ノ中途ニ於テ専断ヲ以テ工費予算三十五萬円ヲ五十萬円ニ増加シタルコト
2、平野カ工事ニ着手スルヤ否ヤ全線十二哩ノ車輌レール、橋桁等ヲ購入シ其ノ「コンミッション」ヲ以テ自己ノ持株(七七六)ノ払込ニ当 テタルコト
3、平野カ砺波鉄道ノ競争線タル金福鉄道(注1)(福野、金沢間)ノ重役ヲ兼ネ福野石動間ヲ打切リテ青島福野間線路ヲ福野ニテ金福鉄道 ニ連絡セシメ青島、金沢間ノ鉄道ニ変更セムト企タルコト と指摘している。
 平野としては自己の本業である木材運搬のためには福野駅までの線路さえ敷いてしまえば、その先が高岡・石動・金沢のどちらへ連絡しても一向に差支えは無く、元来青島方面と津沢方面の利害関係の妥協の産物であった砺波鉄道の内部は、これを 契機に平野らの福野打切派と、石動までの全線建設を目指す石動派に分裂した。
 大正三年八月十九日、同年三月に退陣した津島社長らの役員補欠を目的とした臨時株主総会が開催 されたが、両派の対立による混乱から何も決議する事が出来ず、その対立は決定的なものとなった。
 同年九月四日には、同一事項に関して「古(ママ)田監査役(石動派)ノ召集シタル臨時総会ト平野取締役(福野打切派)ノ招集ニ係ル臨時総会トガ同日二箇所ニ於テ開催セラルルノ奇観」を呈する事態となった。石動派の総会は平野ら福野打切派の 役員を解任し、新たに野村安太郎他六名を取締役に選任して「平穏無事ニ会議ノ目的ヲ達シ」たが、平野の招集した石動派の総会は「満場殺気ヲ帯ヒ如何ナル椿事ヲ惹起スルヤモ難計ニ至リシ」ため、遂に治安警察法による解散処分を受けた。平野は石動派の臨時総会決議無効の訴えを起こした が、その目的を達する事が出来なかった。
 新たに選任された野村取締役は「レールノ引延モ終リ車輔モ到着シタル儘放棄セラレアル青島、福 野間ノ営業開始ヲ急務ナリトシテ重役共同出資ヲ以テ五千円ノ営業資金ヲ調達シ」、翌四年七月二十一日にようやく同区間の営業が開始された。


2.会社の内情
砺波鉄道の会計は設立当初は適正に行われていたが、大正二年五月頃から当時の用地係が用地前渡金から当時の金額で総額二〇〇〇円余りを横領して遊興費に充てた事が後に明らかになるなど、その経理はずさんなものとなった。
『復命書』の「三、刑事事件」及び「四、会計状態」の項目の記述によると、同社の会計諸帳簿は前記横領事件の証拠として大正三年三月に裁判所に押収され、その後平野によって同五年八月まで保有されていたが、この期間の帳簿整理は横領事件 関係の金額も含めてほとんど行われていなかった。加えて会社は開業後毎期発注する赤字の穴埋めのため、当初全線分購入してあったレールや 橋桁等の工事材料の内、青島—福野間に使用した残りを売却する「売り食い生活」を続けていたが、これらの会計処理も明らかにされていないなど、会 社の経理は乱脈を極め、監査に当たった五島参事ら係官も遂に「到底短時日ヲ以テ整理ヲ能クスルモノニアラズ」と認めて「寧ロ会社当務者ヲシテ相当期間内ニ一通リノ整理ヲ為サシメ更メテ再検査ヲ為スヲ以テ得策ナリト認メ」、会社側に整理事項を伝達した上で、検査を中止した。

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 また、鉄道開業後の経営状況については「五、会社ノ営業状態」の項目で「素ヨリ一部ノ開業ナレハ之ヲ以テ 本鉄道ノ将来ヲトシ難キモ毎期常ニ欠損」を出す状態で、大正五年十月から翌年九月までの営業収入に対する営業費の割合は一二二・七%、同じく営業 費に借入金利息を加えるとその割合は一八○・六%に達し、会社全体では一日当たり二八円の赤字を生じており(表1参照)、「現状ノ位ニテハ未来永劫投資額ニ対シ相当利益ヲ得ン トスルモ蓋シ不可能」であると指摘した。
さらに鉄道設備等の状況は「線路ノ保修等ヲ捨テ、顧ミス」、車両に至っては機関車(二両)の他は客車二両・貨車五両しか必要ないはずなのに最初から全線開業時分の両数(客車八両・貨車三五両)を保有していたため、使用されない余剰車両が 雨ざらしとなり、「二捨余両は全然腐朽シ連帯線ハ勿論自線内ト難モ使用ニ耐へ」ない状態となっており、不要車両を売却、あるいは賃貸へ出 そうにも、「総額六千円ノ修繕費ヲ調達スルノ途ナク己ナク放置」される状態となっていた。


3.会社整理の方策
乱脈経営により、文字通り火の車となっていた砺波鉄道の内状を調査した五島参事らは、会社立直しの方策として以下の七項目の改善事項を「六、整理方法」の中で提案した。
(1)営業損失を減らす一環として、破損した不要貨車を鉄道院金沢工場で修理の上、当時貨車不足で悩んでいた中越鉄道に賃貸させる。
(2)高利借入金(六万四○○○余円)と未払金(三万六○○○余円)合計一○万円の負債を長期低利のものに一本化して借換え、支払利息の節減を図る。
(3)繰越欠損金(総額一○万円以上と予想)を確定させ、同時に同額の減資を行って欠損金と相殺させる。
(4)福野より先が競争線となっている金福鉄道(難工事と多額の建設費が見込まれ、事業は足踏み状態であった)との関係を整理し、福野—石動間の速成を図って全線一二哩の鉄道として政府補助金の受給要件を整える。
(5)会社帳簿の整理を早急に完了し、政府補助金の導入による経営の安定を図る。
(6)鉄道経営と会計の経験に乏しい現在の担当者を更迭し、専門知識を有する者を入社させる等根本的に社内の刷新を図る。
(7)砺波鉄道の設備面に精通した主任技術者を選任し、設備の改善を図らせる。
提言の中で五島らは青島—石動間の免許線は「決シテ悲観スへキ鉄道ニアラス全線開通後ニ於テ ハ必ヤ相当ノ収益アリ」とその将来性を認め、最後に「石動線完成後ニ於テハ砺波ノ平野ト金沢トハ本線ト院線(北陸線)トヲ以テ結合セラルヽニ至ル へク此ノ外ニ猶金福鉄道ヲ敷設スルノ要ヲ認メス」と認め、未だ本格的着工に踏み切れずに竣工期限延期を繰り返していた金福鉄道の敷設免許をこの際失効させるべきとして、意見の結びとしている。


4.砺波鉄道から加越鉄道へ
その後鉄道院は大正七年(一九一八)七月十九日に期限が到来する金福鉄道の竣工延期願を七月二十七日付で却下し、八月には免許を返納させた。
これを契機として資金不足の砺波鉄道と、株式払込金の一部(一○万円)が残っていた金福鉄道の合併気運が盛り上がり、同年九月二十五日の臨時株主総会で砺波鉄道の資本金を三五万円から二○万円に減資して累積欠損金と相殺し、さらに金福鉄 道を合併して社名を変更し、経営陣も一新されて資本金三○万円の加越鉄道㈱(本社福野町)として再出発する事が決まり、翌八年九月には登 記が完了した。
同八年上半期からは政府補助金が交付(注2)されるようになり、経営も小康状態を得る事になった。大正十年七月三十日の臨時総会で、加越鉄道は㈱中越鉄工所(社長畠山小兵衛)を合併して資本金を五万円増加し、さらに七○万円を増資して 資本金を一○五万円に増加する事を決議し、福野—石動間の延長工事を行う事になった。
同区間一二・八キロの工事は工費八○万円余りを費して大正十一年七月に完成し、二十一日に青島町—石動間一九・五キロが全通した。こうして加越鉄道は、創立以来一○年目で念願の全線開通が実現して津沢町は北陸線と連絡し、金福鉄道の目的 であった金沢までの交通路も、北陸線経由で一応確保される事になった。
しかし延長線建設資金の調達は高利の借入金に頼ったため、全線の建設費一一五万円から払込済資本金(自己資本)四二万三○○○円を差引いた不足分七二万七○○○円及び欠損金を、借入金と支払手形(約一〇○万円)で補う(注3)という借金 体質に陥り、この負債処理を巡って社内は再び泥沼の混乱になった。加越鉄道が混乱を脱し、累積債務を一掃して経営の安定を見るようになるのは、庄川流木争議を経て同社が電力会社の傘下に入る昭和五年(一九三○)まで待たねばならなかった。


おわりに
創業期の砺波鉄道で事業が順調に進行しなかったのは、地方景気の沈滞に伴う株金払込の不調などに起因した資金不足もさる事ながら、切角集まった会社の資金を不要不急の目的に充当したり、私的に流用する等社内の一部の人間による乱脈経営 や、路線建設をめぐる意見の相違による社内の分裂も大きな要因であった。
これら一連の行為は本来の出資者である他の一般株主に対する背信行為であり、その後の減資等で更に犠牲を強いる事となった。
本稿では、筆者の力不足から砺波→加越鉄道時代の営業報告書等の一次史料が未だに入手出来ず、勢い「復命書」を中心とした記述にならざるを得なかった。今後は更に他の一次史料の発掘に務め、検討を加えてゆきたい。
なお余談であるが、この時砺波鉄道の監査にあたった係官の一人五島参事は後に鉄道院を退官し、東京西南部の交通企業を独占する「東急コンツェルン」を築き上げる五島慶太(一八八二—一九五九)その人であった事を付記しておきたい。


(注)
(1)藩政期以来、人的・経済的に密接な交流の有った砺波地方と金沢市との直結交通路建設を目指し、宮野直道(金沢市)、松村和一郎(福光町)、石崎善五郎(福光町)ら金沢・福光方面の発起人一一名が明治四十四年(一九一一)九月九日付で 金沢—福光間一二哩六○鎖の鉄道敷設免許を取得し、金福鉄道㈱(資本金八○万円)を設立した。しかし計画路線の大半が難工事必至の 山岳地帯であった事や、競争線となる砺波鉄道の計画浮上等から本格的着工は遅々として進まず、大正二年(一九一三)七月一日付で終点を福光より福野へ変更認可を得たが、事業は足踏み状態であった。(国立公文書館 所蔵『鉄道院文書金福鉄道』)
(2)富山地方鉄道五十年史」(一九八三年刊)八三六—八三七頁
(3)『庄川町史下巻』(一九七五年刊)三七六—三七八頁