一国一城令と高岡城廃城の思い (土蔵の会会員、間馬秀夫)

 徳川幕府は、元和元年(1615)「一国一城令」を発したため、高岡城も築城後わずか5年余りで廃城と なったが、現在も築城の様子を止めている。寛文3年(1663)頃に伽藍整備も完成した瑞龍寺の仏殿には、鉛瓦を備えて、高岡城の後ろに控えてい るのは、いつでも兵糧を備蓄すれば、戦闘体制に入れる態勢をうかがわせているようだ。
 前田利家(1537〜1615)が亡くなると、徳川家康は慶長5年(1600)加賀討伐を策略した。この危機を人質となって江戸に下ることで加賀藩を救ったのが、利家の妻まつ(1547〜1617)である。
 この頃の大きな動きには、豊臣家が滅亡した大坂の役である。慶長19年(1614)10月2日には、冬の陣が、そして慶長20年(1615)3月15日に起きた夏の陣によって、大坂城は落城した。その発端は、方広寺鐘銘事件である。慶長14年(1609)から豊臣家が再建していた方広寺大仏殿は慶長19年(1614)にほぼ完成し、4月には梵鐘も完成した。この梵鐘には「国家安康、君臣豊楽」の銘が刻まれていた。家康が解読を依頼した金地院崇伝や林羅山は「家康の名を二分して国安らかに豊臣を君として子孫繁栄を楽しむ」意味 と解釈して徳川家に対する呪詛が込められているとした。また林羅山は、「右僕射源朝臣(うぼくしゃみなもとのあそん)家康公」を「源朝臣 家康公を射る」と解釈する等、家康を怒らせることとなった。こうした言いがかりがきっかけで豊臣家は滅亡することとなった。この大坂の役では、前田利常は徳川方に味方し、高岡城も重心で固める臨戦態勢であった。
 このように徳川幕府の豊臣家に対する対応を見てきた加賀藩としては、徳川幕府になんとしても、忠誠心を明らかにすることが重要な課題であったことであろう。高岡古城の馬場に桜を植えるにしても、難癖や曲解されるような事態は、是が非でも避けなければならない。加賀藩は、徳川幕府から高岡古城に戦闘意識の疑惑が係らないようにするため、城は城としての雰囲気を消し去ること、馬場は武術の練習場所でないことをいかにして示すかに創意と工夫の努力をしたはずである。
 桜を植えて、花見の名所にするにしても、念入りに検討し、細心の注意、そしてそれを確実に実行できる信頼できる部下らを人選したものと思う。
 このように考えると「うは桜いそきほり候て、高岡へもちあけ可申候」そして、「山さくらなとのあ しきハ御用無之候」には重大な意味が込められていたことと思う。
 牧野図鑑にある「葉」と「歯」の掛け言葉の意味は、華が咲きに開くことから「歯が無い櫻」ということである。この古文書を読むうちにヤマザクラなど「葉」が先に開く品種の桜を、なぜ、悪しきものと区別しているのかが疑問に思えてきた。葉が 咲きに開く桜が含まれていても、桜の植樹にさほど支障がないはずである。しかし、平和な今だからこそ、そうであって、当時の加賀藩であったからこそ、特に問題にしなければならない事情があったのかもしれない。そこで、「葉」を「歯」ではなく、「刃」と解釈された場合を考えてみた。 その意味は、加賀藩にとっては重大な内容であったのではないかと思えてきた。
 ヤマザクラなど「刃が先に出る」桜を植栽することは、徳川幕府に対して反旗の意思が隠されているのではないかと解釈されかねないからである。
 また、加賀藩の安泰は、まつ(芳春院)の命がけの対応を後世に伝えるべきである。前だけの子孫ばかりでなく、藩内の住民すべてに広く知らせたいという思いも込められていた桜馬場の桜の植栽事業であったのではなかろうか。

エドヒガン

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ヤマザクラ

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コシノヒガン(南砺市蓑谷)

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コシノヒガン(越村家)

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