地理学徒たち

 散居村の景観は、全国各地にあります。岩手県奥州市胆沢地区、静岡県大井川町周辺、島根県出雲市周辺など が有名です。いずれも、家々を風害などから守る屋敷林を持っています。
 特に出雲の築地松(ついじまつ)は規模や美しさが有名です。砺波地方の屋敷林は杉が中心で、ほかに果樹、竹などさまざまな樹種が組み合わされています。

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 さて、砺波地方はなぜ、このような景観を持つようになったのでしょうか。水田を中心とする稲作地帯では、集村 が一般的です。生活に適した場所に、集まって家を建て、耕地はその周辺に広がります。映画「七人の侍」に描かれたような集落が、治安上も有利です。
 半面、田畑が家の周りにある散居村は耕作に大変便利です。そして、土地の人でも道に迷ってしまうほど、どこへ行っても景観が似ています。このため、「加賀藩が防衛上の理由で家屋を点在させるように命じた」「フェーン風による火災の被害を防 ぐため」など、いろいろな理由が俗説としていわれましたが、本当のところははっきりしません。
 この謎は、大正時代より多くの地理学者を魅了してきました。砺波市史などによると、最初に散居村が文献 などで紹介されたのは大正3年。湯川秀樹の父で京都大名誉教授の小川琢治氏が地学雑誌に「本邦に於いて稀に見る所の一種の居住形態」「(周辺の土 地を耕作する孤立した)荘宅」として紹介しました。成立の理由として①古代の条里制②庄川・小矢部川の氾濫による移転③フェーン風による火災 の危険−などを挙げています。いずれも現在では詳細な検証から概ね否定されていますが、これにより地理学者の間で論争が始まったのです。
 金沢の師範学校で加賀藩の田制史を研究していた牧野信之助氏は大正4年、加賀藩の政策との関連 を発表。戦後の昭和37年、村松繁樹氏が「一般に水はけがよく水の確保に苦労する扇状地にあって、庄川の水に恵まれ、どこにでも住むことができた ことから、耕作に便利なよう耕地の中心に家を建てた」と小川、牧野説に反論しました。
 その後もさまざまな研究がなされていますが、はっきりしたことはよくわかっていません。
 散居村の開発が進んだのは、近世に入り加賀藩の治水事業が始まってからです。戦国時代が終わ り、社会が安定する中で、農民たちが耕作に都合がよいように開墾した土地に順に家を建てて住んでいったと考えるのが素直なようです。治水事業が行 われていたとはいえ、当時は庄川の河道がいくつにも分かれて氾濫を繰り返していましたから、水につかりにくい微高地(少し高台になった場所)が選ばれたのでしょう。

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 いずれにせよ、自然条件、歴史条件に、先人たちの大きな英知が加わり、砺波の豊かさの象徴とも言える散居村が形作られたことは間違いありません。

(砺波郷土資料館。明治42年に中越銀行として建てられた建物を昭和57年にチューリップ公園内に移築した。明治洋風建築の代表的な建物として砺波市の文化財に指定されている。昭和58年から砺波市立砺波郷土資料館となった)