織田一磨(下)――福野に疎開して

福野町夜鷹祭P.JPG 20年も前のことだが、織田一磨の疎開時代の足跡を調べたことがある。結局、まとめることができずに今日に至ってしまったが、今回、この版画家について書くにあたり、当時の資料をもう一度確認しようと探してみたものの、どうにも見つからない。「見つけてから」などと悠長な態度で構えていると、いつのことになるか分かったものではないので、思い出しつつ文章を綴ろうと思う。

 織田一磨の画業を知る基本文献は、画家が生前に記録し続けた自作版画目録(大正5年~昭和24年)に、同目録の補遺として遺族や教え子が作品照合しつつ昭和24年から昭和30年までの作品データをそろえ、夫人のユキエさんが追加・編集した『自画石版目録』(私家版、昭和47年)である。これは、織田の石版画総目録であるばかりでなく、各時代の出来事や心情も綴られた貴重な証言である。では、同書で福野時代はどのように扱われているのかというと、「昭和二十年三月十九日富山県福野町へ疎開す。/昭和二十四年二月二十五日帰京す。」(同書149頁)と記されているに過ぎない。同書巻末に年譜が添えられているが、それにも「昭和二十年 三月富山県福野町へ疎開。多数の日本画を作る。/昭和二十四年 二月二十三日に吉祥寺の自宅に帰る。」(同書168頁)とあるだけだ。帰京の日の異同はともかく、何とも味気ない。しかし、それもやむを得ないことであった。原因は「多数の日本画を作」ったことによる。石版画目録であるから、石版画を制作していない時期は省かざるを得なかったのである。よって、織田一磨の基本文献ではあるが、福野時代を探るにあたっては、あまりにも情報不足である。城端にてペイント.JPG
では、今の時点で福野時代の情報を求めるならば、小池智子氏編の詳細な年譜が有用である。小池氏は創作版画の研究家で、織田一磨のお孫さんでもある。例えば、町田市立国際版画美術館で2000年に開催した「織田一磨展 明治・大正・昭和-うつりゆく風景」図録所収の小池氏編の年譜から、少し長くなるが織田一磨の疎開時代の事項を拾う。
 
昭和19年(1944)62
 この年の末、ユキエと娘は富山県福野町へ疎開。後片付けを終えてから自らも赴く事とした。
昭和20年(1945)63
 3月19日、富山県福野町へ疎開する。福野に於ては版画は、木版2点のみの制作。他は日本画の作品が多く、当地の人々により愛蔵される。/5月、安永宅に間を借り、画室が出来て水彩、日本画等を多く描く。/11月、同じく福野町に疎開中の院展同人、文展無鑑査の日本画家真道黎明、同町出身の日本画家栗山弘圓と3人で済美会画会を起こす。/12月、上記3人で福野町恩光寺にて展覧会を開く。
氷見朝日山からP.JPG 昭和21年(1946)64
 6月、福野洋風美術研究所開設にあたり主任教師となる。/7月、美術講習会指導。/9月、10日~12日、棟方志功、野村玉枝、前田譜羅と「短歌と俳句の展覧会」を開く(於大和高岡店)。/この年、越南美術会をつくる。
昭和22年(1947)65
富山県展審査員になる。/4月、福野町西方寺に於て「版画・日本画展」を開く。版画は旧作を出品。/10月、北陸美術審査員。/疎開中、個展の他に北陸展、県展、越南展などにも出展。
昭和23年(1948)66
県洋画部主任へ。/3月、近隣の福光町に疎開していた棟方志功らと共に、北陸大衆版画協会を設立する。/5月、版画・日本画個展、出町清風楼。/10月、版画・日本画個展、福光町図書館。/11月、版画・日本画個展、戸出町永安寺。
昭和24年(1949)67
2月23日、吉祥寺に戻るが、自宅はまた貸しされて入れず。ひとまず同じ桜小路の益守宅に入り、アトリエに通う。
 
 さて、この疎開に関して、東京生まれの織田一磨がどうして富山県福野町を選んだのか、いかなる理由があったかという疑問を、誰しもがまずは抱くのではないだろうか。前述の『自画石版目録』の頁を丹念に繰ってゆくと、連作『日本名山画譜』の内に富山を題材にした2点の石版画――《黒部峡谷宇奈月温泉夜景》と《富山県医王山からみた立山連峰》が出てくる。両作品とも昭和10年作である。年譜にはないが、多分、織田はスケッチ旅行で当地を訪ねたに違いない。とはいえ、これが縁となって疎開先を決したわけではないだろう。福野に織田を引き寄せるもっと強力な決め手がなくてはならない。では何か。ユキエ夫人の生まれ故郷が南砺市であったからだ。『日本名山画譜』で立山連邦を取り上げたのは至極まっとうな選択であったにしても、南砺市と石川県との境をなす医王山(いおうぜん、標高939m)からの眺めにしたのは、ひょっとすると夫人の話を受けてのことであったかもしれない。五ヶ山秋景P.JPG(
 20年前の調査の際に思いがけない出会いもあった。どなたの紹介であったのか、また訪問の目的も織田一磨の調査には違いないが、どの点をねらってのことであったか、今となっては曖昧だが、富山市在住の小説家、岩倉政治(1903~2000)さん宅を訪ねたことがある。通された書斎の壁に額が立てかけてあった。額の中に入っていたのは選挙ポスターであった。岩倉さんの、横顔であったか、顔の輪郭と文字だけを墨一色で描いた簡素なポスターであったと記憶している。
岩倉さんの話では、昭和21年4月、戦後初の衆議院議員総選挙に富山3区から立候補した折りに、織田さんが描いてくれた、石版印刷による選挙ポスターとのことであった。美術作品とはいえないが、富山の地で自画石版第一人者の織田一磨が石版に触れていたのである。また、自著の小説を取り出し、この一節のこの人物は織田さんがモデルなんですよ、とも。うろ覚えだが、井波の瑞泉寺であったか、城端別院であったか、選挙演説を織田さんが聞きにいらっしゃっていて、その姿が強く印象に残ったものだから、との説明であったと記憶している。実はその時、小説の題名を書き留めなかったために、演説情景を収めた書名を、今、確信をもって記すことができないが、「石楠花」(『ハトムギの夏』新日本出版社、1979年所収)112頁に県議選立候補者の立会演説の様子が描写された箇所があり、これではなかったかと思う。岩倉政治さんの遺品は富山市立図書館にほぼすべてが寄贈され、「岩倉政治文庫」を設けて公開されているので、関心のある方は訪ねていただきたい。
福野町吹雪P.JPG さて逸話はこの辺で終わりにして、福野時代の織田は写生に熱心に取り組んだようである。調査の段階で、草花を大きく描いた水彩画や日本画を数多く見た記憶がある。が、風景画となると、南画風に庄川峡を描いた一幅に出くわしたぐらいであったろうか。近代化の波に呑み込まれ消えゆく運命にある、町の風情や情感・情緒とその翳りを石版にとどめることを得意とした織田にとって、東京や大阪、松江はモチーフを提供する絶好の場であった。では、疎開時代の砺波野、富山の風物はどのように映っていたのだろうか。
帰京した年の8月から疎開時代の思い出を綴る、あるいは締め括るためにか、石版画6点からなる連作『富山の画会』を制作している。織田一磨の眼によって捉えられた疎開時代の富山である。豊かな自然景観だけでなく、季節感と町やそこに暮らす人々の風情とを絡めた叙情的な風景画の連作となっている。デッサンや水彩ではなく、石版によって疎開時代の思い出を綴り終止符を打っているところなどは、自画石版画家としての自負の表れであり、面目躍如たるものがある。
前述の『自画石版目録』に記載された6点のデータに小池氏の年譜の記載事項を加えて記しておこう。なお、作品名の前に付した数字は『自画石版目録』の番号である。289《福野町夜鷹祭》色刷11度 12枚印刷 約1ヶ月を制作に要した。昭和24年8月20日作/290《城端にて》12枚印刷 10枚を頒布会 2枚を保存(破れ1枚)昭和24年9月10日作/291《氷見朝日山から》色刷 12枚印刷 昭和24年10月作/292《五ヶ山秋景》色刷 12枚印刷 昭和24年11月作/補遺346《浄土山と立山》色刷 12枚印刷 昭和24年11月作/293《福野町吹雪》7度刷色刷 12枚印刷 昭和24年12月9日作。
 桜の名所として名高い氷見の朝日山公園から遠望した富山湾。砺波野の5月、6月の代表的な風物詩である、大きな行灯を引き回す夜高祭り、その中でも一等名高い福野の夜高祭り。散居の景観を伝える平野にぽつんとたたずむ神社と砺波野を囲む南砺の山々。世界遺産となった五箇山の合掌造りと深まる秋の気配の中、冬支度の手を休めて一服する農夫。凍てつくような吹雪の中の福野の町並み。富山の代名詞である立山。四季が織りなす自然の姿と人々の営為がバランスよく配された連作である。浄土山と立山P.JPG
最後に余談をもう一つ。疎開時代に随分と親交のあった人から聞いたのだが、織田一家が帰京してからしばらく後に、大きな小包が送られてきた。何だろうと思い開くと『富山の画会』の版画が60枚入っていて驚いた、とのことであった。『富山の画会』6点とも12枚限定で、内2枚を作者保存用としたようである。残りの10枚、すなわち『富山の画会』は6点であるから合計60枚をそっくりそのまま福野に送ったことになる。これは、例えば《城端にて》のデータとして記された「10枚を頒布会」の記載と合致する。『富山の画会』は疎開中に世話になった人々への、そしてその土地への返礼であり、置き土産であったのだろう。
杉野秀樹・砺波市)
【図版データ】
『富山の画会』6点
《福野町夜鷹祭》1949年 紙・石版 44×30cm
《城端にて》1949年 紙・石版 29×43cm
《氷見朝日山から》1949年 紙・石版 30×45cm
《五ヶ山秋景》1949年 紙・石版 44×30cm
《福野町吹雪》1949年 紙・石版 45×30cm
《浄土山と立山》1949年 紙・石版 31×46cm