番外編 -気仙沼を訪ねて

1. JR気仙沼駅前.JPG 7月末、盛岡に行く用事があり、「ならば」ということで、気仙沼に立ち寄ることにした。15年も前になるが、同地在住の銅版画家に展覧会への出品をお願いするために訪ねたことがある。気仙沼は日本有数の水揚げ高を誇る漁港として社会科の教科書にも載るほどだ。漁業と港町がすっかり刷り込まれての気仙沼訪問だった。

今も気仙沼の印象がくっきりと記憶に刻まれている。それはJRの駅周辺の情景だ。駅舎を挟んで両向かいが小高い山で、まさに山間の駅であった。海が間近にある気配など微塵もない。行き先を告げられずに目隠しをされて連れてこられたら、ここが名高い漁港の町とは夢にも思わないだろう。まさにリアス式海岸ならではの自然が織りなす景観である。2. 高台のホテルから港を望む.JPG
昨年の3月11日、気仙沼が津波に襲われた。ライブ放送でその惨状を見た。大型船、球形の巨大な貯蔵タンクが、まるで木の葉のように、濁流に翻弄され流れてゆく。津波の映像を見たアナウンサーが「まるで映画のよう」と形容して批判を浴びたと記憶しているが、ライブを見ていた筆者もまた現在進行中の現実と受け止め見ていたとはいい難い。
気仙沼のどのあたりの映像なのか見当もつかず、不安だけが増幅してゆく。銅版画家ご家族は大丈夫だろうか。なすすべなく安否を気づかう気持ちだけが空回りしていた。
当時、方々にご一家の安否確認の問合せをしたが、今、メールを読み返すと、3月14日にはご家族全員の無事が確認できていたようだ。あの時の、全身がほんわりと包み込まれたかのような安堵感だけが忘れ難く残っている。この機会に、久しぶりにご一家を訪ねようと出立したのである。
3. 停泊中の漁船.JPGJR気仙沼駅は、15年前の記憶のままに、山に囲まれていた。現在、気仙沼線は当駅止まりで、その先は依然として不通である。すなわち終着駅だ。たどり着いたのが午後4時過ぎ。まだ容赦ない日差しが照りつけ、とにかくタクシーで宿泊先へと向かう。車は中心市街地を抜け、気仙沼港に出た。小波さえもない、穏やかな表情を見せる湾内の水面。放映された荒れ狂う濁流と、目の前に広がる情景とがうまく重ならない。ホテルは高台にあり、直接の被害をこうむることはなかったようだ。4. エースポートとうねった地表.JPG
ホテルへ向かう道すがら、車中から津波の爪痕を各所で確認できたが、それでも自分の目でしっかりと見なければ、との思いに駆られ、地図を頼りに、訪問先のお宅まで歩くことにした。港に停泊している漁船の数に驚き、漁も本格的に開始されているのだと思ったが、翌朝、ホテルから駅へと向かうタクシーの運転手さんから聞いた話では、多くの船は修理の順番待ちで停泊しているとのことであった。
埠頭に隣接した気仙沼市観光物産センター「エースポート」は鉄筋3階建ての建築物で、一見、何ともないように見える。が、3階部分の窓ガラスは跡形もない。津波にすっぽり呑み込まれたのだろうか。エースポート前広場を挟んだ向かいに、「男山」と誇らしげに金文字で飾られた酒店が傾いている。津波で土台が破壊されつつも、何とか踏みとどまったのだろうか。それとも階下が津波にさらわれ、階上が外形を保ちつつ取り残されたのだろうか。とにかく痛ましい光景だ。
写真では伝えられないものがある。例えば臭いだ。町を歩くと、異臭が鼻をつく。海水の腐った臭いだ。逃げ道を失った海水がそのまま淀んでいる(図版6)。建物のあった土地と道路との高低差は、50センチは優にあろう。奇妙な光景だ。あとで聞いたのだが、地盤沈下で大潮のときには海水が浸入して冠水するので、道路部分を盛土して舗装したという(図版7)。畦道に囲まれた田んぼの風である。もちろん津波襲来前には建物があり、人々が息づいていた場である。
市街地を歩いて意外に思った。当たり前といえば当たり前なのだが、市街中心部は鉄筋の建物が比較的多く、外形を酷く損なうことなく残っている。無人とはいえ、町としての景色を何とか保っている。3月11日のライブで見た気仙沼の惨状から想像した町のイメージと合わないのだ。鉄筋の建物が防波堤の役割をなしたのか、木造の家屋も散見できる。よくぞ持ち堪えたものだ。「よく頑張ったな!」と声をかけたくなる。平地部分が狭く山が迫り出したリアス式海岸特有の地形のため(図版8)、港からJR気仙沼駅へ向かうと、すぐに上り勾配の道となる。進めば進むほど、津波の爪痕が薄らぐ。500メートルも行けば、メイン道路の右手奥、数メートル小高くなった所に市役所があり、無傷に見える。5. 傾いた店舗.JPG
小高い山の中腹にご一家のお宅があり、窓から下を見ると、川が流れている。津波の濁流が遡上した大川だという。家や船が上流に向けてすごい勢いで流されてゆく光景を想像してみようとしたが、とても無理だ。川べりには納涼祭の提灯の灯が夕暮れ時に溶け込み、ヒグラシの鳴き声が緑の山間に響き渡る。のどかな情景がすべての負のイメージをかき消す。
気仙沼の地図を見ながら、今しがた感じた町の印象を話したところ、壊滅的な被害を受けたのは、筆者が散策した場所から北へ上がった鹿折(ししおり)地区と、南に広がる南気仙沼地区だと教えられた。平地の少ない土地柄、埋め立てで造成された地区とのことである。空もうす暗くなりかけていたが、車でまず北の鹿折地区を案内してもらう。
6. 逃げ場を失った海水.JPGガランとした空間にぽつりぽつりと建物が見える。造成区画販売中の土地のように見える。ここにも賑やかな商店街があったんですよ、との言葉がむなしく宙を舞うだけで、合点しがたい。たとえ瓦礫であっても、人の営みがあったことの証拠である。それが撤去された空間から、人々の生活を探ろうとしても無理だ。海から数百メール離れた陸に取り残された巨大な船。夕闇の中で黒い塊にしか見えない。存在することの理由のすべてを失ったあの物はもはや「船」ではない。私たちの世界から切り離された、別世界の光景としか映らない。
次に案内してもらった南気仙沼もまた同じ印象の空間であった。町のほぼすべてが津波によって持ち去られたその地にはもはや町はなく、つかみどころのない漠とした空間が広がっているだけだ。住みなれたところでも、目印がなくなったこの町の道路を、ましてや町の灯があの日から無くなってしまった暗がりの中を車で走るのは怖いという。土地勘のない筆者などは、ある時点から方向感覚が全く麻痺してしまった。少々上り勾配の道で車が停まった。「この辺りに気仙沼線の線路があったんですよ。南気仙沼駅舎も流されてしまって」。7. 地盤沈下と盛土の道路.JPG
車が大川に出た。「あそこに見えるのが南気仙沼小学校です」。夕闇せまる中、大川を挟んだ対岸に、わずかに残る夕景をバックに南気仙沼小学校のシルエットが浮かんでいる。そういえば、YouTubeで大川を逆流する津波の映像を見たことがある。堤防を越えんとする濁流の勢いに怖れをなした撮影者が避難した先が南気仙沼小学校であった。津波と瓦礫が押し寄せる、あのすさまじい動画の情景がようやく実景と結びついた。
あたりはもう真っ暗となり、ラーメン屋兼居酒屋での夕食となった。海の幸と地酒、大将お薦めの酒などを交わし、楽しい一時であった。前から不思議に思っていたことをぶつけてみた。気仙沼がどうして宮城県なのかということだ。地図を見れば一目瞭然なのだが、この一帯が岩手県側に異常なほど食い込んでいるのだ。それが地形のなせる業かというとそうでもなさそうだ。鉄道で気仙沼に入るオーソドックスな経路は、新幹線の岩手県一ノ関で気仙沼線に乗り換え、山間を、そしてトンネルを抜けて、電車に揺られること1時間20分ほどで気仙沼に到着する。岩手県に一度入り、再度、宮城県に入る。この一帯の帰属はやはり不思議だ。筆者の疑問に、歴史好きと見える大将がいとも簡単に答えてくれた。「それはね、金山だよ」。この一帯には良質の金鉱・金脈があり、古来より渡来人が都から送り込まれ採掘されてきたという。奥州藤原氏の繁栄を支えたのもこの一帯の金であったという。
8. 階上体育館(気仙沼女子高等学校).JPGよほどの埋蔵量があったのだろう。時代は下り、伊達家の時代にも金脈は尽きることなく藩の財政基盤の一翼を担ったとのこと。仙台藩がこれを手放すはずがない。確かにそうだ。天候に左右される農作物がもたらす財よりも、金の方が安定優良資産であるに違いない。では、皆さんの帰属意識は?と聞くと、「そうだな、海路で開けた気仙沼だから、人々の意識は海に向かっている。宮城県民でも、岩手県民でもないな。いうなれば気仙沼人かな」と顔を大きく崩した。高知県土佐と似ている。似ているといえば、漁業の町・気仙沼のメイン魚もカツオだそうだ。お刺身で出されたカツオを食しながら、これまた疑問に思ったことを口に出した。「タタキじゃないんですね?」「このあたりでカツオをタタキで出すことはないな」。全身にお酒のまわった状態で聞いた、その理由をここに記すのは控えよう。多分、正確ではないだろう。とにかく気仙沼の歴史と食文化にどっぷりと浸ったひと時であった。
 
 さて、筆者のお礼メールに対する返信が数日後に届いた。
今日も暑い1日になりそうです。
力強いメールありがとうございます。不景気の波がゆっくりと東北を襲い、地域活性化に努力していたのに、津波が追い討ちをかけるように街を壊滅させてしまいました。あれから一年以上が経過しましたが、杉野さまがご覧になったような状態です。
しかし、私達は千年に一度の使命だと思いガンバらなければいけないのだと感じています。寂れ始めた街でしたが、それなりの歴史もあった愛しい街でした。復興、そして新しいよりよい街をみんなで造っていかなければならない。
全国、また世界のご協力に感謝して日々を送る毎日です。
杉野さま、今回はおいで頂きありがとうございます。気仙沼の現状、東北の現状を皆様にお話して頂ければと思います。
 
「千年に一度の使命」は果たして誰が担うべきなのだろうか。壊滅した町の再生は一朝一夕の話ではない。地域を超え、世代を超えての再生事業であろう。ならば「誰が」の答えはおのずと導き出せるはずである。
自らが目にした「いわき」や「気仙沼」の姿をときどき思い出し、その時にできることをなそうと思う。確かにこの使命を果たすには、瞬発力と継続力が必要であろう。行政は双方の力を十分に発揮しなければならない。では、個々人が果たせるものとは何か。微力ではあっても、何かをなそうとする意思と行動の継続に他ならないだろう。それこそが、ともに使命を背負った人々を支え合い、ともに未来を切り開こうとする思いを強くするはずだ。
津波とともに何もかもが失われた漠とした空間を見て、自分の育った町のことを思った。町の復興・再生といっても、それはあくまでも機能としての復興・再生であろう。人生とともにあった町の姿の再生ではない。それは記憶の中で失われることはないだろうが、目の前に再び立ち現れることは永遠にないのだ。
今さらながら思い知らされた。失われたものの再生など、しょせん不可能なのだ。自然災害では如何ともしがたいが、町の発展の名のもとの人為的スクラップ・アンド・ビルドはどうだろうか。筆者はこれを頭ごなしに否定はしない。そうではなく、二度と取り返しがつかないからこそ、十分な考察と議論が必要なのではないか。残すべき物があるか否か、あるならば「残す」という一過性の問題として捉えるのではなく、如何にしてその姿の保持を保証するのか。感情論に流されず、冷静な思考で結論を出さなければならない。壊すにしても、残すにしても、後世にバトンタッチするものであるからだ。
(杉野秀樹・砺波市)