出町の浄瑠璃文化

「一口浄瑠璃知らぬは男の恥」

 出町に浄瑠璃をもたらしたのは、水島村(現小矢部市水島)勝満寺(しょうまんじ)の住職であったと言われています。住職は京都への遊学の傍ら学んだ浄瑠璃を、天保の頃(一八三〇〜四三)出町の若者たちに教えました。
 以来、幕末から明治中期にかけて、出町浄瑠璃の祖とも言われる中村屋知平(ちへい)をはじめ、多くの名人たちが出町から輩出しました。この時代は出町浄瑠璃の黄金時代とも言われ、出町では「一口浄瑠璃知らぬは男の恥」とさえ言われたそ うです。

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 そして、この出町浄瑠璃の伝統こそが、出町子供歌舞伎曳山のベースとなっているとも言われていま す。現在でも毎年祭りが終わると、五月五日に浄瑠璃の名人や曳山祭りの発展に貢献した物故者の法要を行っており、浄瑠璃 文化と子供歌舞伎の深いつながりを見ることができます。


(携帯用浄瑠璃台本=西町文楽会所蔵)
 また毎年十一月には浄瑠璃大会が行われ、近年では、子供三味線教室や子供浄瑠璃教室などに よって後継者の育成にも力が入れられています。このように出町浄瑠璃の文化は現在も脈々と継承されています。

 

西町で使われていた文楽人形

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 出町の曳山と歌舞伎浄瑠璃が結び付いた頃から、東曳山と中町曳山では現在のように子供歌舞伎が行 われていたと考えられています。しかし、西町では本格的なあやつり人形を使った人形浄瑠璃(文楽)が行われていました。これは明治 二十一年(一八八八)まで続きましたが、使い手がいなくなったためか、その後、子供歌舞伎が行われるようになりました。その当時 の人形が今も残されています。

 

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