出町の曳山

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 出町の曳山の歴史は、天明年間(1781-89)にさかのぼることができます。その当時、曳山は町の繁栄のシンボルとして、それぞれの町の経済的 な上昇期に作られました。砺波地方の経済の一中心地として上昇してきた出町の人々にとって、曳山建造は悲願でもありました。現在、出町には3基の曳山がありますが、その内、西町の曳山が最も早く造られました。西町の豪商・鷹栖屋(たかのすや)甚兵衛の記した「諸道具夜具買入帳」 の中に、天明9年(1789)「西町引山ノ台新出来」と記されています。

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 出町の曳山3基に共通する大きな特徴は、曳山舞台正面の2本の柱を取り外すことができるという点です。この工夫により、他地域のように柱に邪魔 されることなく、のびのびと歌舞伎を演じることができます。

tanoshimu019.jpg(左から、東町、西町、中町の曳山)

 

《西町曳山》

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 建造当初の芝居舞台は仮舞台程度のもので、そこで人形浄瑠璃が上演されており、慶応年間(1865-68)に現在の姿に改造されています。見返り(みかえり=背面)に施された大彫刻と高欄(こうらん)以外は白木のままの御殿が特徴です。

 

《中町曳山》

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 平成16年の曳山の解体修理作業の中で、慶応4年(1868)に曳山を大修理したという内容の墨書が発見され、江戸時代から存在していたことが実証されました。黒塗りに彫金の金具がうたれた落ちついた作りで、一重の屋根が特徴です。
(中町曳山七福神図)

 

 

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《東曳山》
 以前の曳山は、明治33年(1900)の出町の大火で焼失しました。現在の曳山は関係5ヵ町(東町・木舟 町・川原町・新町・新地)共同で資金を作って、昭和11年に完成した曳山です。そのため「東町曳山」といわずに「東曳山」といいます。朱 塗りの高欄や装飾的な柱など、曳山全体の華麗な姿が特徴です。

(東町曳山の鬼瓦=波に飛竜)

 

曳山の保管
 山蔵(曳山収蔵庫)ができる以前、曳山は分解され各部ごとに箱に納められて、町内の個人の蔵 に分散して保管されていました。分散することで曳山が全焼するのを避けるという意味もありました。それぞれの部材が町内の財産として厳しく管理さ れ、大切に取り扱われていました。
 曳山は釘やかすがいを一切使わない巧妙な仕組みに造られており、部材の左右を間違えるなどし て組むと、どうしても最後まで組めずに全部ばらしてやり直し、やっとのことで組上がった年もあったそうです。

 

 

中町曳山の大修理

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 中町曳山は、その建造の年や経緯に関する資料はほとんど残されていませんでした。しかし、平成14年(2002)から3年に渡って行われた解体修理事業の中で、大屋根や正面妻側の下地板から、幕末に行われた曳山改修に関する墨書が3点発 見されました。
 この墨書によれば、慶応4年(1868)3月に大工4人がかりで16日間の修理が実施されたことや、 6人の塗師によって漆塗り作業が行われたことなどがわかり、少なくとも江戸末期には現在とほぼ同じ形の曳山であったと考えられます。
(中町曳山図掛け軸)

 

東曳山の再建

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 明治33年(1900)8月19日、出町は空前の大火に見舞われ、東曳山が焼失してしまいます。以来、町の人たちの曳山再建にむけた努力が長年にわたって続けられることになりました。設計は井波大工の松井角平(かくへい=5代恒信)によって行 われ、これを出町の大工たちが請け負うかたちで造られました。
(東町修理見積書)
 まず、大正8年(1919)に曳山の台部が完成し、この年から仮舞台での子供歌舞伎の上演が再開されました。次に上部の建造の計画が立てられ、大正10年(1921)9月18日、出町神明宮の社務所において、日掛銭(ひかけせん)1日2銭 を月に2回集金するという覚書に146人の署名を集めて、工事が始められました。その後逐次塗りや金箔の装飾が施されていき、台部ができてから実に17年の歳月が過ぎた昭和11年(1936)、最後の金具が打たれ、現在の東曳山が完成しました。

tanoshimu025.jpg(西町・東町の正面図と東町曳山の車輪)

 

 

「彫刻下絵の発見」
 平成十八年(二〇〇六)、木彫りの町として知られる井波(南砺市)の老舗番匠屋(ばんしょうや)で、西町曳山の見返り(背面)の彫刻「関羽読書図(かんうどくしょず)」の下絵が発見されました。下絵には「明治五年」とあり、幕末から明治にか けて行われた曳山改修の際に描かれた下絵であることがわかります。同時に発見された百数十枚の下絵についても照合が進められると、西町曳 山の欄間や破風(はふ)、また、東曳山の欄間の下絵などが確認されました。
 その中でも幕末に描かれた東曳山の欄間下絵は、明治三十三年(一九〇〇)の大火で焼失した以 前の東曳山に関する初めての資料として注目されます。特に「嘉永二年」(一八四九)に描かれたスイセンとボタンの欄間の下絵は、東曳山の山蔵で古 くから保管されていた欄間と照合した結果、一致することが判明しました。これにより嘉永二年には東曳山がすでに完成していたか、あるいは 制作が進んでいたということが立証されることとなりました。

(番匠屋で見つかった下絵と欄間) 

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