
永昌庵跡の観音堂
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庄川町青島の松川除地内から、砺波市の中野地内を
経て太田に至る6キロメートルにわたり、西国三十三
カ所の観音霊場にちなんだ観音石仏が立てられていま
す。
33体中、庄川町青島に7体、庄川町庄に2体、
砺波市中野に18体、それに太田に5体の32体が確
認されています。不明の1体は13番の中野小西深宅
角にあった如意輪観音です。
昭和56年度の豪雪の際
に崩壊しました。「青島中野太田地区内の旧中筋街道
に散立する観音菩薩像調査研究書」(水上澄著、昭和
49年8月発行)には、13番如意輪観音は現存報告
されており、8番十一面観音は不明となっておりま
す。それ以後造立されたもので、碑文などでも、それ
は明確です。
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この三十三カ所観音の建立主唱者は、中野永昌庵二
代庵主大真鉄猶尼(安政6年7月没)で、自ら1番を
建立されました。
鉄猶尼は、当時名尼として知られる城端町のある庵
主でした。それを中野の曹洞宗の檀家の方々が懇願し
て、永昌庵の庵主として招かれたのです。鉄猶尼は、
着任早々に三十三カ所観音の造像を発願され、自ら西
国三十三カ所の霊場を巡礼され、各霊場の土を若干彩
土されてこられたのです。その土を三十三カ所にちな
んで、埋まられてあります。
この三十三カ所観音は、次のような願いが込められ
ています。一つに庄川の水難を防ぐため、二つに交通
の安全に、三つの悪疫のないようにとされました。
年次在銘のあるもので最も古いのは、旧永昌庵跡の
観音堂内にある第27番如意輪観音の嘉永7年(18
54)8月が最も古く、29番馬頭観音、31番十一
面観音の安政2年(1855)が猶尼の没する4・5
年前に造立されたものです。そしてこれらの石仏は一
石一尊の浮彫りであり、大きさも33番の十一面観音
の他は、すべて同じような大きさに統一されていま
す。個人が施主となったものは新旧あわせて10体、
残りは青島・中野・太田・杉木その他の人々が寒念仏
講を結成して広く喜捨を乞い、その浄財をもって建立
されたものといわれています。
西国三十三カ所霊場は、近畿地方を中心に散在して
おり、三十三カ所の観音霊場ごとに巡礼札を納めるこ
とから、三十三カ所礼所、西国礼所ともいい、巡礼の
霊場として弘法大師の四国八十八カ所とともに古来か
ら有名です。三十三カ所の数は『観音経』に述べられ
ているように、観音が三十三体に身を変えて救ったと
いう信仰によるものです。
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