となみ野の歴史(概略)

 となみ野に人が住み始めたのは縄文時代に遡ります。
 東南西を囲むは丘陵地帯には縄文期の遺構が多く見られます。平野西側、小矢部市の桜町遺跡からは、全国でも初めて、縄文期の木造建築物の柱が出土しました。ほかにも各地に縄文から弥生時代にかけての遺跡が多数見られ、小矢部市を中心に前方後円墳、円墳などの古墳が多数見つかっています。
 古代には五箇山地方にも多くの人が住んでいたことが記録に残っています。平野周辺の砺波市東部には千光寺(創建703年)が開かれたほか、いずれも現南砺市の旧福野町には安居寺(創建718 年)、旧井波町には瑞泉寺(1390年)、旧城端町には善徳寺(1471年)などが開かれ、平野周辺の山裾から、砺波地方が発展してきたことが推察されます。
 平野部の開拓は近世に入って本格化しました。庄川は砺波野をいくつもの支流(「網状流」)に分かれて流れていましたが、加賀藩は庄川が平野に流れ出る旧庄川町(現砺波市)に松川除(まつかわよけ)を設け、流路を整理しまし た。これにより、となみ野は豊かな農地へと徐々に変貌、加賀藩の穀倉地帯として発展していきます。
 合せて、飛騨地方からの材木の集散地・庄川町、瑞泉寺の門前町として、また彫刻の町として発展した井波町、五箇山を背景とした繊維産業と、善徳寺の門前町としてにぎわった城端町、木工業などで福光町などが栄えます。さらに北陸道の宿場町で商都として発展した石動町(現・小矢部市)もにぎわいました。
 少し遅れて、農業の発展とともに、加賀藩から町立てを許された福野町(現・南砺市)、出町(砺波市)、津沢(小矢部市)なども、商業や手工業により大きな賑わいを見せます。
 近代に入り、城端、福光、福野町は繊維、機械、木工業などの工業生産で発展を遂げ ます。時代の激しい変化にさらされながらも、砺波野は豊かな農業地帯を背景に、したたかに歩みを進めました。