散居村とカイニョ、アズマダチ

  散居村(散村)の形成については、諸説があります。農村地帯で一般的な集村形態(家屋が集まって集落を 形成し、その周りに田畑がある)に比べ、田畑が家の周りにあるので耕作には大変便利です。また、土地の人でも道に迷ってしまうほど、どこへ行って も景観が似ています。
 このため、「加賀藩が防衛上の理由で家屋を点在させるように命じた」「フェーン風による火災の被害を防ぐため」など、いろいろな見方がなされましたが、本当のところははっきりしません。
 映画「七人の侍」に描かれたように、盗賊から村を守るには集村形態の方が有利なのでしょうが、平野は守りを固めるには不都合な地形で、もっぱら農業(水田)経営に特化した地域形態として開発が進んだようです。
 当時は庄川の河道がいくつにも分かれて氾濫を繰り返していましたから、河原のような砂礫の広がりの中に、水につかりにくく、耕土のある微高地(少し高台になった場所)が点在していたものと思われます。農民たちが開墾しやすい土地を順に選 び、耕作に都合よいように、その中心に家を建てて住んでいったと考えるのが素直なようです。特に真宗一揆や戦国時代を経て、近世に入り加 賀藩の治水事業が始まってからは、砺波平野全体に散居形態が広がりました。
 豊かな農村地帯だけに、現在も古くから立派な家が多くあります。「吾妻建(あずまだ)ち」と呼ばれる切妻を東側に向けた建て方が一般的で、太い梁の上に天井を張る「枠の内」造りの広間を中心に、仏間、客間などを備えた間取りが多く見られます。
 母屋の東側に納屋、肥料ともなる藁灰を貯める灰小屋などを配置し、杉を中心とする屋敷林で取り囲まれています。風向きに合わせ南西側に多く柿、りんご、桃、栗、胡桃などの果樹もそれぞれ、概ねの場所を決めて植えられるのが普通で、台所な ど置かれた北側には湿気を好む竹が植えられました。

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 水が豊富といっても扇状地のため地下水位は低く、川水を引いて生活用水に利用していました。 沈殿槽を経た水を台所へ引き、さらに排水は溜め枡で土壌還元していました。
 屋敷林に囲まれた家屋は田畑に囲まれて、近隣と支えあいながらの自給自足が成り立ち、あたか もひとつの小宇宙のような生活空間を形作っていました。