チューリップ栽培

■歴 史

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 となみ野の春は咲き乱れるチューリップで始まります。花と緑の街、砺波市の花です。花ショウブ、カンナ、コスモスと一年を通して花のイベントが続きます。
この地でチューリップ栽培が始まったのは大正時代にさかのぼります。輸入が始まったばかりの球根を、庄下村矢木(現砺波市矢木)の水野豊造が買い入れ、栽培したのが最初です。当時、太平洋側でも栽培が行われましたが、ウィルスにやられて 失敗。積雪地の砺波では冬の積雪がウィルスを発生を抑えてくれることもあり、水稲の裏作として栽培技術を確立。新潟と国内を二分する産地に育っていきました。
大正13年(1880年)には、生産組合を設立。昭和13年(1938年)には福野農学校出身で、ロサンゼルスで花卉商を営んでいた笹島英樹(井波町出身)の協力を得て、アメリカへの輸出も試みられました。同年に富山県輸出球根出荷組合連合会を組織し、昭和15年(1940年)には40万球の輸出を達成しました。
 このころの農家といえば、食べるのがやっと。“舶来”のチューリップを栽培してみるなどということは、なかなか思いつかない時代です。となみ野の豊かさ、人々のレベルの高さが、時代に先駆けた試みを生み出したといえるでしょう。
 第二次大戦中は“敵性作物”とされ栽培が禁止されますが、栽培農家は密かに種球根を栽培し、戦後に備えます。昭和23年(48年)に富山県花卉球根農業協同組合を設立。「外貨獲得で復興に尽くしたい」と対米輸出を再開。39年(64年)には 輸出球根2000万球を達成します。農家の貴重な収入源ともなり、豊かな地域づくりに大きく役立ちました。
 さて、砺波地方はチューリップ栽培の適地なのでしょうか。中央アジアから地中海沿岸が原産といわれる チューリップはもともと冷涼な気候を好みます。砂地の庄川扇状地は水はけがよく、冬の積雪は病気や霜柱から地中の球根を守ります。春のフェーン風 で急速に温度が上がり、花の時期が短くなることを除けば、栽培の好適地といって間違いないようです。
 毎年40万人近くの観光客が訪れるチューリップフェアは昭和27年(52年)に始まりました。砺波町合併を記念して、県農業試験場砺波園芸分場(現・県農業技術センター野菜花卉試験場)を中心に開かれたが第一回目ですが、その前年にも試験場の 花壇などが開放される“幻のフェア”が開かれていたそうです。47年(72年)にはチューリップタワーが完成。60年(85年)には広さ 5.4ヘクタールのチューリップ公園が完成しました。毎年、450品種、100万本のチューリップが訪れる人を楽しませています。

■現状と今後

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 富山県のチューリップ栽培は、平成5年(1993年)に250ヘクタール、6000万球とピークを迎えますが、その後、減少の一途をたどっています。
最大の原因は、安価なオランダ産球根の輸入拡大です。従来、球根の輸入は病害虫の国内進入を防 ぐため、厳重な隔離栽培が義務付けられていましたが、貿易摩擦解消などで昭和63年に廃止され、折からの円高と相まって輸入が急増しました。
 大規模栽培のオランダと異なり、日本は労働集約型です。種類によっては2−3倍の価格差があり、大きな打撃を受けました。さらに、米価の下落、補助金の削減などを受け、兼業農家がどんどん減っていることから、高齢化も耕作を請け負う請負 耕作業者は、チューリップまで手が回りません。花の街といいながら、栽培面積は減少の一途です。
 県花卉球根農協では、富山県内で育成された「黄小町」などの主力品種を減らし、オランダ産の品種なども投入。生産拡大を図っています。
 ここ1年ほどのユーロ高も追い風となって、若干持ち直しの兆しが見えてきていますが、栽培面積の減少に歯止めがかかるにはまだ時間がかかりそうです。
 “花の街”、そして富山県のシンボルでもあるチューリップ農家に少しでも活気が出てきてほしいものです。