3.南無太子仏

南無太子仏(鷹栖)
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南無太子仏とは、聖徳太子2歳の合掌仏をいいま
す。この南無太子仏は砺波地方に多く分布し、とりわ
け庄川扇状地の扇央部にあたる鷹栖、若林、林、高波
に多く展開しています。
故井上鋭夫氏の大著「一向一揆の研究」で、親鸞における
思想形成に太子信仰が少
なからず影響を与えており、真宗の流布に太子信仰が
深く関わりがあると説かれたのは周知のとおりです。
本願寺の別院井波瑞泉寺には太子堂があり、そこには
裸体に赤い袴をし、すそを長くつけ、合掌して立つ木
造南無太子仏があります。南無太子仏とは、太子2歳
の春2月15日、東に向かって「南無仏」と唱えられ
て合掌する掌中より仏舎利がこぼれ落ちたと伝えられ
ています。真宗の「ただ念仏」がこの無心の「ただ南
無仏」に共感したのでしょう。
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砺波地方の真宗寺院には、この木造南無太子仏を安
置する堂を持つ所が多い。これは井波瑞泉寺の影響を
多分に受けているといえます。井波瑞泉寺といえば、
夏の「太子伝会」で南無太子仏が開帳され、太子絵伝
八幅の絵解きなどが行われ、近在の多くの人々が参詣
するので知られていますが、冬には、各村を巡回して
います。南無太子仏、太子絵伝の巡回は、明治に入っ
てから行われてきました。これは次のような理由から
です。
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明治12年に瑞泉寺は出火して、本堂・太子堂が全
焼しました。翌13年に本堂再建を企て、18年未完
成のまま仮遷仏を行いました。しかし当時、経済界は
不況で建設費の捻出はおもうにまかせず、そのため南
無太子仏や絵伝を秘蔵しておくべきではなく、広く解
開放してその恩徳を受け、経営のたすけにすべきであ
るとして、地方を巡回して太子像の開扉と絵伝の絵解
きを行うようになったのです。
ところで、呉西地区の各市町村では、石仏調査が進
められていますが、南無太子仏は現在147体の報告
があります。北は高岡市吉久、南は平村上梨、東は婦
中町音川、西は小矢部市南谷にあり、井波町瑞泉寺を
中心に半径約10キロメートル北西の地帯には、やや
集中しているといえます。
この南無太子仏は、高さ約30センチメートルから
約50センチメートル、幅は15センチメートル前後
であきらかに井波瑞泉寺南無太子仏の模刻であること
がわかります。これらの南無太子仏の管理者は、ほと
んど確認することができ、また豪華な堂に入っている
のも共通しています。これら南無太子仏の像立に関わ
る伝承や像立年月の銘文のあるものを整理してみます
と、明治後期から大正期にかけて像立が集中していま
す。ちょうど太子像・絵伝の巡回先とは微妙にずれ、
必ずしも重なりはしないのです。
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太子像・絵伝の巡回風景(昭和52年・五鹿屋)
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明治後期から大正期にかけて、井波町に接する庄川
町金屋には、その頃緑色凝灰岩いわゆる金屋石が多く
採掘され、一生の間に千体余りの石仏を造ったという
石工森川栄次郎も、この頃活躍しているのであり、需
要と供給のバランスも、それなりにとれていたので
す。
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