出町の曳山は天明9年(1789)に出来たと記録にありますが、その15年ほど前の出来事です。高岡の御車山の町衆が、御車山は豊臣秀吉から前田利家が賜り、高岡・前田利長公拝領の由緒あるもので、これは高岡だけに許されたものであるから、他の町では同じものを持つことはまかりならんとして、放生津の曳山の車輪が御車山と同じ外車様式で大八車に似ているとして、寺社奉行に差し止めを申し出たことが発端です。
この申し出は、城端・石動の曳山に対しても行われ、その後3年に渡って裁判となりました。その結果、石動は祭りの中止に追い込まれ(後に復活)、城端は内車様式に(明治期に外車様式に復活)、放生津は大八車から板車(明治期に車輪を豪華に装飾)に変更して祭りが復活しました。
出町の人たちは当然この騒動を知っていたわけですから、本当は外車様式の曳山を作りたかったけど内車にしようと考えたかも知れません。
また、八尾がターゲットにならなかったのはなぜかしら?と思い調べたところ、この当時八尾は内車様式の曳山でセーフだったのです。八尾が外車様式の豪華な曳山となるのは明治に入ってからで、事実八尾から大沢野に譲られた曳山は現在でも内車様式です。
安永の曳山騒動は各地の曳山に影響を与え、その後も、一つの地域の中でも曳山を持つことは自分たちの特権と考えて、他町の曳山建造意欲を押さえてしまったりということがあったのかもしれないですね。(tonarino-oyaji)